HODGE'S PARROT

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隠喩としての病 「やおい」とその「語られかた」




川原泉の「ヘイトスピーチ」における「バイキン」という<言葉>の使用が、エイズという病気/疾病と関連づけられていること。このことは、「蔑称」「差別語」の使用以上に(あるいはそれらとの「相乗作用」によって、はるかに)、大きな問題であると、最近感じてきている。

そんななか、以下の文章を見かけた。

白っぽい絵が多いよしながふみにしては珍しく、背景を細かく描きこんでいるところからも、意気込みが伝わる。ボーイズラブ的な要素は控えめなので、その手の作品への免疫がないひとでも楽しめるはず。


http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20051009#p2

ここで使用されている「免疫」という言葉に注目したい。「はてなキーワード」には、このように説明されている。

免疫

「疫病(病気)を免れる」こと。

一旦ある病原菌に感染することにより、その病気に対する抵抗力ができ、次からはかかりにくくなることを言います。最近では「自己」と「非自己」を認識し、「非自己」である異物を除去する能力のことと言われるようになりました。

つまり免疫とは、「自己(自分自身の本来の細胞など)」と「非自己(異物・自分の体の外から入ってきた細菌やウイルスなど)」を区別し、ときには生命そのものを脅かす結果になる「非自己」を排除する働きのことで、このような働きを免疫力といいます。


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%cc%c8%b1%d6

もちろん、上記の文章を書いた人は、何の「悪意」もなく、これまで何度となく「語られてきたこと」を、何の疑問も感じずあたりまえのようにそのまま「反復」して書いたのだろう──いわば「この手の作品」を評するための「常套句/規範」なのだろう、それによって「自分は同性愛者ではない」ということ明確に表明できる。したがって、この人に対しては何も言うことはない。このことは明記しておきたい。

しかし、「悪意」がなく、あたりまえのように「語られること」。「差別」が「差別として」認識されていないこと──あるいは差別しても「かまわない」ということ。このことが「ボーイズラブやおい」における大きな問題点なのではないか。

整理しよう。

ボーイズラブ的な要素」とは「同性愛的な要素」に他ならない。
異性愛的な要素」に関しては、「免疫」という<言葉>は使用されない。
しかし「同性愛的な要素」には、「免疫」が必要である。
なぜか……それは「同性愛」が「病気」であり、したがってそれから「免れるため」に「免疫」が必要なのである。

これこそ「やおい」=「同性愛的な要素をもつもの」における「語られかた」の大きな「問題」であり、「やおい」のもつ深刻な「差別構造」だ。

「同性愛的なもの」を描きつつ、「同性愛」を否定する──そしてネガティブに「語る/語られる」。
なぜ「否定したいがために」同性愛(らしきもの)を描くのか。

よしながふみは、より大きなマーケットを目指すのならば、そしてより多くの人を楽しませたいのならば、免疫が必要なボーイズラブ的、同性愛的な要素」を、最初からまったく描かなければいい。

コットン・マザーは、かつて梅毒を、「神の正しき審判が我らの時代のためにとっておかれた」罰と呼んだ。この話を初めとして、15世紀の末から20世紀の初頭にかけて梅毒について言われた世迷いごとを思い出してみると、多くの人々がエイズを隠喩的に──疫病のような、社会に対する道徳的審判とみなそうとするには驚くにはあたるまい。非難屋のプロともなれば、セックス経由で伝わる致死の病気が提供してくれる修辞攻勢の機会には抗しきれないだろう。



スーザン・ソンタグ『隠喩としての病 エイズとその隠喩』(富山太佳夫 訳、みすず書房)p.218

新版 隠喩としての病い・エイズとその隠喩

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