デイヴィッド・レーヴィットがアラン・チューリングに関する本を出版するということなので──Gay by Gay なので──期待して待つことにしよう、と星野力『甦るチューリング』を再読……いや読み飛ばした。
(Andrew Hodges の "ALAN TURING: THE ENIGMA" はまだ翻訳されないのだろうか?……これも Gay by Gay だ)。
その中に、チューリングがウィトゲンシュタインの講義に出席し議論したというエピソードがあって(これは Gay vs. Gay だろうか)、興味を惹いた。
ウィトゲンシュタインは、数学における証明、無限、数、法則といった用語を日常用語と関係づけ、自動的に導出される論理体系は、普通に真理という言葉で意味されるものと無関係だ、と論じたそうだ。彼はただ一個の矛盾、とくに自己矛盾があると、どんな主張も正しいと証明されてしまう、という述語論理の特徴を非難した。
ヴィトゲンシュタイン 嘘つきのケースを考えてみよう。こんなことで誰かが悩んでいるとは奇妙だ。ごく普通のことではないのか? もしある人が「私は嘘つきだ」といったとき、彼は嘘つきではないということになるし、だから嘘つきになって、……というのだろう? それがどうしたのが? 飽きるまでそれを続けることができるし、どうして、やってはいけないのか? かまわないじゃないか? 意味のない言葉の遊びで、どうしてこんなことにみんな興奮しているのかね?
チューリング 人々が困っているのは、普通、矛盾を何かまずいことが起こる基準にしているからです。しかし、この(嘘つき)の例では何もまずいことは起こりません。
ヴィトゲンシュタイン そうだ。……それ以上だ。何よりもまずいことは起こっていない。どこから災厄がやってくるのかね?
チューリング 本当の災厄は、それが応用されない限りやってきません。応用での災厄とは橋が落ちるとか、そういうことです。
ヴィトゲンシュタイン ……私の疑問は、どうして人々は矛盾を恐れるのかということだ? 数学の外の世界で、命令とか記述とかで矛盾を恐れるのはわかる。疑問は、数学の中でどうして矛盾を恐れるのか、なのだ。あなたは応用でまずいことが起こるから、と言った。しかしまずいことが起こるとは限らない。そしてほんとにまずいことが起こるのは、たとえば橋が落ちるのは間違った自然法則を使ったからだ。
チューリング あなたは計算の中に矛盾が隠されていないということを確信するまで、あなたの計算を応用することができないのです。
ヴィトゲンシュタイン そこに間違いがあるように私には思える……。もし私が嘘つきのパラドックスを信じていたとしよう。そして、「私は嘘つきだ、だから私は嘘をついていない、だから嘘をついている、だからここで矛盾が生じた。だから2掛ける2は369だ」。さて、これを掛け算とは言うべきでない、それはつまり……。
チューリング 矛盾がなくても橋が落ちるということはわからないものですが、それでも、矛盾があればどこかでまずいことが起こるのです。
ヴィトゲンシュタイン しかし、未だかつてそういう風にまずいことが起こったことはない……。
- 作者: Andrew Hodges,Douglas Hofstadter
- 出版社/メーカー: Walker & Co
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上記の Andrew Hodges 著 "ALAN TURING: THE ENIGMA" は、序文をダグラス・R・ホフスタッターが書いている。で、そのホフスタッターの主著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の<20周年記念版>が白揚社より今月14日に発売されるようだ。いちおう僕は『ゲーデル,エッシャー,バッハ』は持ってるけど、バッハのところを拾い読みした程度だ。