ゴードン・ブラウン首相はアラン・チューリング(Alan Turing、1912 - 1954)に対して正式に謝罪した。
- Treatment of Alan Turing was “appalling” - PM [Number10.gov.uk]
- イギリス首相の、アラン・チューリングに対する公式謝罪文 [はやしのブログ]
アラン・チューリングは、いわゆる「チューリングマシン」を構想した天才的な数学者。第二次世界大戦では、ナチス・ドイツの「エニグマ暗号」を解読し、連合国軍勝利に重要な功績を果たした。しかし彼はゲイであったために、当時のイギリスで有罪となり、1954年に自殺した。
天才数学者 55年ぶり名誉回復 チューリングに英首相謝罪 [東京新聞]
チューリングはわずか二十四歳の時、現在のコンピューターの基本原理となる思考上の計算機械「チューリングマシン」を発案。コンピューター科学の父ともいわれる。第二次大戦中は、暗号の傍受・解読機関のスタッフとしてドイツの暗号機「エニグマ」の理論的解析などに成功した。
だが、五二年に当時、違法とされた同性愛が発覚。有罪判決を受け、同性愛治療として女性ホルモンを投与された。政府研究機関への出入りも差し止められ、五四年に失意のうちに服毒自殺をした。
ブラウン首相は声明で「彼の抜群の功績がなければ第二次世界大戦の歴史は変わっていたと言っても過言ではない」と指摘。「時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す」とした。チューリングをめぐっては、科学者や同性愛者らが政府に公式謝罪と死後叙勲による名誉回復を求めていた。
Alan Turing - Campaign for government pardon and apology
ブラウン首相の謝罪は、もちろん画期的であり歴史的であり象徴的である。しかし、その一方、政治家の謝罪は単なる「流行・ファッション」なのではないか──英『インディペンデント』は現在もゲイに対する「恥ずべき」迫害は続いていると述べている。とりわけ旧植民地のジャマイカにおいて。ジャマイカでは先日、イギリス領事ジョン・テリー/John Terry 氏が殺害された。テリー領事はゲイであり、ヘイトクライムの犠牲になったと見られている。
Editor-At-Large: After Turing, the shameful abuse of gays goes on [INDEPENDENT]
また、イギリスのゲイ・ニュースサイト「Pink News」にも、今回のブラウン首相の謝罪では──謝罪だけでは──不充分なのではないか、という意見が出ている。なぜ、チューリングただ一人(the only one)なのか? そしてもし、アラン・チューリングという「ビッグ・ネーム」がなかったとしたら、10万人にも上るといわれているイギリス市民の犠牲者に対する謝罪は行われたのだろうか?
Comment: Brown's apology to Alan Turing is not good enough [Pink News]
Why should he be the only one deserving of an apology for the "utterly unfair" treatment he has received at the hand of the government of the time?
オーストラリアのゲイ・サイトのタイトルは「謝罪はあまりにも遅すぎた」である。そして記事の中でオーストラリア政府も「アンフェアな扱いを受けた」ゲイ男性に謝罪すべきである、と主張している。
An apology long overdue [SX]
Many observers around the world would agree. Prominent gay rights activist Rodney Croome said Australian state governments should also apologise for imprisoning gay men.
“The Alan Turing apology is an important precedent, as is last year's apology by the Hobart City Council for the arrests at the Salamanca Market gay rights stall in 1988,” Croome told SX.
“An apology would not only help mend the hearts of those men who were gaoled. It would also send out the message that legal discrimination is wrong wherever and whenever it occurs.”
When the Australian Government made its apology to the indigenous people of the Stolen Generation, it was highly appropriate and long overdue. Only pig-headedness and an irrational fear of admitting we or our forebears had somehow got things wrong delayed the apology so long.
アメリカのゲイ・ブロガーの記事にもブラウン英首相の謝罪を賞賛する一方、同性愛者に対して同様の措置を行った他の国も──例えば米国大統領による公式謝罪はあるのか、という疑問が提出されている。
なぜ、その英国人が謝罪の対象に選ばれた(single out)のか? アメリカも同じように、同性愛を違法化し取り締まった──私たちは、そのことを記憶(メモリー)している、と。
Why single out the Brits? Yes, it was awful what happened to Alan, but we've not much better if you look at the history of how America has treated its gay citizens. We have short memories, America too criminalized "homosexuality" and we were persecuted and some even spent time in jail for loving someone of the same gender. The McCarthy era was no picnic either.
Britain Is Very Sorry for Firing, Castrating WWII Computer Genius Alan Turing [Queerty]
矛盾の有名な例にラッセルのパラドックスがある。「〈自分自身を含まない集合〉をすべて集めた集合は、自分自身をその要素として含むか」という疑問である。普通の集合は、自分自身を要素として含まない。たとえば、熟れたイチゴや赤いバラなど、世の中の「赤いものをすべて集めた集合」は、自分自身つまり「赤いものをすべて集めた集合」をその要素として含んではいない。なぜなら集合という抽象的なものは赤くないからである。「すべての音を出すものの集合」も同様に自分自身を含まない集合である。逆に「赤くないものをすべて集めた集合」は自分自身(つまり集合)を含んでいる。集合は赤くないからだ。
バートランド・ラッセルが提示したパラドックスはこうだ。〈自分自身を含まない集合〉をNと名づける。すべてのNを集めた集合、つまり〈自分自身を含まない集合をすべて含む集合〉をAと名づける。
Aは自分自身を含むとしよう。つまりAはNでないと仮定する。AはNをすべて集めた集合だから、その要素は全部Nである。つまりAは自分自身を含まない。これは矛盾だ。
では、Aは自分自身を含まないのか? Aの中にAが要素として含まれていないのならば、Aは〈自分自身を含まない集合〉つまりNである。すべてのNを集めた集合がAであるから、Aの中にはAがあるはずだ。これも矛盾している。どちらにしても矛盾が起こる。およそ、含むか含まないかの他に可能性はないからだ。ここで「すべて」という大風呂敷が矛盾を起こしているのは明らかだ。すべてを集めたというと、自分自身もその「すべて」の中に入ってしまう。この「大風呂敷な集合」は、普通の集合ではない。集合の集合(メタ集合)という階層が一段上のものなのだ。矛盾の元凶は、この大風呂敷のせいで、自分が自分を引き合いに出すという、合わせ鏡のような仕掛けができてしまったことである。これを自己参照、または自己言及という。
数学の基礎をゆるがすパラドックスにたいして、数学者たちはいくつかの解決策を提案した。アンリ・ポアンカレーは、混乱は集合の要素の定義が集合自身に依存していると指摘し、ラッセルは集合の階層を細かく分け、自己参照による矛盾が起こらないようにしようとした。これらの試みを論理主義という。
Alan Turing - "God is Dead" - Tribute to the Great Enigma
数学の根元を脅かしている危機について考え続けていたチューリングは、長距離ランニングの途中、牧場の中に横たわって、アルゴリズムがあるかどうかを決定する「決定問題」へのひとつの着想をえた。彼は、「計算可能な数について」という論文*2を書き、今日のコンピュータの基本となるモデル(チューリングマシンと呼ばれている)を提唱した。(……)
まず数学者がやっているメンタルな作業とは何なのか、数学者の心の中をモデル化しないといけない。それがチューリングの思考の原点だった。(……)
ある人が紙と鉛筆をもって何かを計算しようとしてる場面を想像してほしい。「計算している人」とは英語でコンピュータ(Computer:計算手)という。運転している人をドライバ(Driver:運転手)というのと同じだ。いまわれわれの周囲にあるコンピュータとは意味が違う。
計算している人(計算手、数学者)の心理状況はどうなっているのだろう? まず計算手は紙の上の注目点に書かれている記号(一目で読みとれる範囲内であれば複数の記号群でもいい)を読み、その記号に従って自分の「心の状態」を変え、それと同時にある記号を紙に書き、目を隣へ移す。または同じ場所に目を留めておく。これをくり返して、ある結果が出たときに「終わった!」という心の状態になって計算を終える。もちろんいつまでも悩み堂々巡りをして計算が終わらないこともある。心の中には、有限個の心の状態とそのあいだを移り変わる(遷移する)ときの方法(手順)が入っている。この手順は有限の長さだろう。なぜなら無限に長い手順は頭に入らないから。これが人間のやっている計算だ。計算というと数字を扱うものと思われがちだが、相手は記号でも式でも定理でもいいし、メールの文字でも絵のビットパターンでもいい。
心の状態とは、普通は内部状態と呼ばれている。もし入力がなければずっとそのままの状態が持続するようなものだ。状態は有限個あり、とびとびの明確な状態だ。(……)
記号の種類はあらかじめ決まっている。記号は一文字とは限らない。単語でもいいし文章でもいいが、それは一目で認識できて判断できないといけない。最初の紙に書かれている記号(空白も記号の一種)と計算手の内部状態も決まっている。紙は面で二次元だが、これを横方向へスライスして考えれば、長い一次元のテープでも同じである。
「同じ」とはそもそも何に関して同じなのか? それはこのモデルに関しては同じ動作と同じ結果を与えるという意味で同じなのだ。もちろん実際に計算している人にとって、紙に書くか、テープを巻いたり巻き戻したりして書くかは能率が大違いだろう。しかし、このモデルはそういう物質世界からは超越した論理の世界で動いている。
この心に相当する部分を「オートマトン」*3、紙やテープは「記憶(メモリ)」、この両方が組み合わさった計算手のモデルを、人々は「チューリングマシン」と読んだ。
『甦るチューリング』 p.29-30
[関連エントリー]
- アラン・チューリングのイミテーションゲーム
- アラン・チューリングとウィトゲンシュタインの討論
- 2005年度チューリング賞にピーター・ナウア氏
- エニグマ暗号文、64年ぶりに”クラック・ザ・コード”
- デイヴィッド・レーヴィットのアラン・チューリング本
*1:
*2:「計算可能な数について、決定問題への応用と共に」(On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem)
*3:ウィキペディア「オートマトン」の解説より。”携帯電話を例にとると、キーを押すことによってさまざまな機能が使用できるが、その機能はキーと必ずしも1対1で連動しているわけではない。「5」のキーを押すことにより、ある場合には画面に5が現れるが、ほかのある場合には「な」が現れる。あるいは画面上のキャラクターが行動したりもする。これは今までに入力された情報によって内部の状態が変化しているからである。このように入力がなされた時点での「文脈」に対して複雑な解釈を行うような仕組みをオートマトンという。”