たぶん、僕がJ.S.バッハの作品で一番好きな──『シャコンヌ』が最高だ、と言う/言ったかもしれないが──『マタイ受難曲』(St. Matthew Passion BWV244)の中の39(47)番のアリア「憐れみたまえ、わが神よ」。
トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団の素晴らしい演奏で。
このバッハの音楽を聴いて思い出すのが、柳田邦男の『犠牲・サクリファイス』である。「冷たい夏の日の夕方、25歳の青年が自死を図った。意識が戻らないまま彼は脳死状態に。生前、心を病みながらも自己犠牲に思いを馳せていた彼のため、父親は悩んだ末に臓器提供を決意する。医療や脳死問題にも造詣の深い著者が最愛の息子を喪って動揺し、苦しみ、生と死について考え抜いた11日間の感動の手記。」と、Amazon の「BOOK」データベースに記されているように、この本は愛する者の死に立ち臨んだ人間の「情動」の記録である。
(亡くなった)彼が感情移入したというアリアは、バッハの『マタイ受難曲』のなかの最も有名な第四十七曲のアリア「憐れみ給え、わが神よ」である。彼は十数年前に私が買ったヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の『マタイ受難曲』全曲のLP盤を自分の所有物にして、何度も聴いていた。そして、とくに冒頭の第一曲合唱「来たれ、娘たちよ、ともに嘆け」と、いくつかのコラール、そして四十七曲のアリアを好んでいた。
第四十七曲は、逮捕されたイエスが審問にかけられたとき、「あなたもイエスと一緒にいた」と問われたペテロが、「そんな人は知らない」と、三度嘘をついてイエスを裏切ってしまい、外に出て激しく泣く場面があり、その後に続いて歌われる長い長いアリアである。
ヴァイオリン・ソロの切々たるオブリガードに乗って、アルトによって歌われるこのアリアは、悲痛な情感をたたえて、「憐れみ給え、わが神よ」の言葉を繰り返す。ペテロの後悔を、すべての人にとって「己が後悔」として歌われる曲であると、解釈されている。
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。
するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
「マタイによる福音書」 26. 73-75 (新共同訳『聖書』より)
NR.39(47) ARIE(ALT)
Erbarme dich,
Mein Gott, um meiner Zähren willen!
Schaue hier,
Herz und Auge weint vor dir
Bitterlich.
第47曲(39曲) アリア(アルト)
神よ、哀れみたまえ、
我が涙ゆえに。
ご覧あれ、心も瞳も
あなたの前で泣き濡れている。
哀れみたまえ!
カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のCDブックレイトより
二つの腎臓の摘出がすんで、洋二郎の遺体をわが家に連れて帰ったのは、午後十一時すぎだった。
居間に安置して、グラスの水を注いで供えたとき、賢一郎がテレビのスイッチを入れた。偶然にも、NHKの衛星放送でタルコフスキーの映画『サクリファイス』が放映されているのに気づいたのだった。映画はいままさに終わろうとするところだった。
なんということだろう。あの『マタイ受難曲』のアリア「憐れみ給え、わが神よ」のむせび泣くような旋律が部屋いっぱいに流れた。私は立ちすくんだ。洋二郎は神に祈ったことはなかった。頑なまでに祈らなかった。私も目に見えない大きなもの、すべてを超越したものとしての神の存在への畏怖の念を抱きつつも、全身全霊を投げ出して祈るという行為をしたことがなかった。
だが、このとき私は、神が洋二郎に憐れみをかけ給うてほしいと心底から祈る気持になった。どういう神なのかと考えることもせずに。アリアの旋律はいつまでも私の胸に響きつづけた。
柳田邦男『犠牲(サクリファイス)』p.206-207
そして思う。川原泉のような人物に「バイキン」と呼ばれながら、死んでいった人たちのことを。
日本では、川原泉が「子供が見る」マンガに、同性愛を「バイキン」だと書き込んだ。なぜ「バイキン」なのか──言うまでもなく、そこには、あきらかに、エイズとの関連がある。
1987年の一年間で一万人のニューヨーカーが(エイズで)死亡した。1991年には二万人が死亡した。すでにレトロ・ウイルスに犯された患者数は、市の健康管理システムと社会福祉制度の力能をはるかに超えていた。1987年には、Gay Men's Health Crisis よりも戦闘的なACT-UP(AIDS Coalition to Unleash Power)が作家/劇作家ラリー・クレーマーの提案で結成される。
語源的に見ると、患者(patient)とは苦しむ者のこと。もっとも、いちばん強く恐れられるのは苦痛そのものではなくて、人をおとしめる苦痛です。
川原泉は、多くの人々がバタバタと斃れ、死んでいく状況を前にして、どうして「バイキン」なんていう<言葉>を吐けるんだ? なぜ「病気以外の苦痛」をも人(患者)に負わせるんだ? それが「当時の流行」だったからなのか? どういう「思い」でそんな<言葉>を書けるんだ? どうして「子供が見る」本に書き込めるんだ? どんな「意図」が、そこにはあるんだ?こんな最悪の「ヘイトスピーチ」を、20年間もそのままにして「繰り返し」、同性愛者の人権を奪い、そして尊厳を──20年間も──蔑ろにしてきた……今後も続けるつもりなんだろう? いったい、いつまで?
お前のことは、絶対に許せない。
そして、さらに思うのが、id:PEH01404氏のような「擁護」の方途である。
川原泉に限らず女性漫画家が描く作品は、ヒーローが愚かなところがあるけれども愛すべきヒロインを、愚かさを含めて好意に値する女性として受け入れるという黄金パターンを踏襲した作品が、相変わらず比率的に極めて多い。ヒーローもまた脆弱な人間として描く点で、独自のオリジナリティーが高く評価される川原泉の作品でもその基本構造は変わらない。
この者は「蔑称」を使用──川原と同じように、川原に準じてなのか──しているので引用しないが、この文章を読むと、だったらなぜ同性愛者を登場させる意味・理由がまったく分からない。「ヒーローに値しないのなら」最初から登場させなければ、いいだけじゃないか。それなのになぜ、差別語や蔑称、そして「バイキン」などと言った言葉を使用してまで、同性愛者を登場させる「意味」「理由」があるんだ。「ヒーローに値しない」のなら最初から「トレンドのBL」に手をださなければ、いいだけじゃないか。「ヒーローに値する/ヒロインを受け入れる」というのは、セックス=性行為の<対象>ということなのか? お前の理屈のほうがぜんぜんわからない。
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