HODGE'S PARROT

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キリスト教の弁証法

加藤尚武『哲学の使命 ヘーゲル哲学の精神と世界』(未来社)に興味深い一節があったので引用しておきたい。

キリスト教の伝統には危機を乗りこえ生き残るための一種独特の弁証法が働いているように思われる。自分に危機をもたらしたものを自分の内に繰り入れるという生存術である。「神の死」がキリスト教を脅かす。「神の死の神学」が生まれる。「社会主義」がキリスト教を脅かすと、「キリスト教社会主義」が生まれる。
──二000年ほどまえにキリスト教が生まれた時、ギリシア存在論はすでにそれを脅かしていた。しかし、やがてプラトンキリスト教化され、やがてはアリストテレスすらもキリスト教化された。「キリスト教を維持し保全するのに努力した者が、まさにその最大の破壊者となった」というニーチェの言葉は、逆にしても正しいのではないか。「最大の力でキリスト教を脅かしたものは、その最大の力でキリスト教を支えるようになった」とも言いうるであろう。
貧者の生存術としてのキリスト教のもつこの弁証法に着目する時、もしもキリスト教ヘーゲル哲学というプロブレームを解釈して、ヘーゲルキリスト教を脅かしたか、支えたか、という問いを立てるなら、それはあまり意味はない。実際にヘーゲルは脅かすものとしてキリスト教の批判者であり、かつ支えるものとしてキリスト教の再生を求めていたのである。


p.154-155

なんとなく、最近のキリスト教の出来事──すなわち、合同キリスト教会やメソジスト教会英国国教会聖公会)における、同性愛・同性婚の「承認」を想起させる。
では、その論法でいくと、同性愛と最も「対立的」なキリスト教の宗派こそが、その対立性ゆえに、最大の力で──同性愛者によって──支えられるようになるのだろうか。

可能性については、よく、考えうることがそれだ、といわれる。が、ここにいう思考は、ある内容を抽象的同一性の形式においてとらえること、という意味の思考にすぎない。そして、あらゆる内容を同一性の形式にもたらすことができるし、そのためには、内容の置かれたさまざまの関係から内容を切り離しさえすればよいから、どんなばかげた、矛盾に満ちたことでも可能だと見なされます。今夜、月が地球におちることも可能となる。月と地球とは切り離された物体だから、空中に投げあげられた石とまったく同じように、落下することができる、というわけです。トルコの皇帝がローマ法王となることも可能となる。トルコの皇帝は人間であり、人間であるからにはキリスト教に改宗し、カトリックの司祭になることもできる、というわけです。


ヘーゲル『論理学』(長谷川宏訳、作品社)p314