コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」組曲とプロコフィエフの交響組曲「キージェ中尉」作品60。
演奏はジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団。レーベルはCBSソニー。
このLPレコードは「セル/クリーヴランドの芸術1300」と銘打ったシリーズの Vol.41。「1300」というのは、値段が1300円だからなのだろう。つまり廉価盤だ(それにしても、かつてのアナログレコードの廉価盤は、メーカーが違えど軒並み1300円だった。カルテルでも結んでいたのだろうか)
録音データは詳細に記載されている。これによると録音日は「ハーリ・ヤーノシュ」が1969年1月10、11日、「キージェ中尉」が1969年1月17、18日──ということは、「ハーリ・ヤーノシュ」を二日で録音し、そしてそのきっちり一週間後、「キージャ中尉」をやはり二日で録音している。
プロデューサーは Andrew Kazdin。エンジニアは Edward T.Graham, John Guerriere。エンジニアの名前がきちんと書かれていることからもわかるように、録音がとても良い。例えば「ハーリ・ヤーノシュ」の「ウィーンの音楽時計」なんかもカラフルなオーケストラの響きが鮮やかに再現される。
演奏も、さすがはセル、というもの。超一流だ。完璧に「統率」されたオーケストラの響きが、その美学を雄弁に語っている。曖昧なところがひとつもない、硬質な、クリアカットの演奏。どちらかというと、こういった作品は、リラックスして聴くものなのだが、セルの演奏の前では居住まいを正して聴きたくなる。それほど凄い演奏なのだ。
ところで、このような凄い演奏を聴かせるセル&クリーヴランドという──アメリカの一時期を確実に代表した──「楽団」は、どのようにして誕生したのだろう。レコードジャケット裏面に書かれてある吉井亜彦氏の解説がヒントになるかもしれない。
セルとクリーヴランド管弦楽団という音楽史上の一大帝国が1970年代まで存在していたこと、これは歴然たる事実だ。いや、帝国などという形容のしかたは、彼らにはあまりふさわしいものではないだろう。強いていうなら都市国家(ポリス)とでも形容すれば、事実にはより近いかもしれない。しかも、それは最強の都市国家(ポリス)である。
そう。いくつかのセルとクリーヴランド管の演奏を聴くと、「最強」という言葉にはまったく嘘偽りはない。そしてイメージさせるポリスとはアテネではなくスパルタだ。
あらためていうまでもないことだが、オーケストラはきわめて多くの人間を必要としている。
(中略)
こうしたほとんどマスとよんでもいいような人たちを統率していくのは、たんに物理的な意味においてだけでもかなり難しい。そのうえ、彼らにいきた「音楽」をやらせることはもっと難しい。セルはそれをやりとげた指揮者だった。
「マス」に音楽をやらせる。とにかくやらせる。「音楽をただひたすら音楽として再現」させる。指揮者についていけない者は、容赦なく叱咤される、そしてそれでもダメならクビだ。
彼(=セル)はつまるところ原音楽から純音楽を抽出しようとしていたのである。その意味では彼はひとりの錬金術師であった。特筆すべき音楽上の錬金術師であった。
指揮者は楽器を演奏しない。にもかかららず、音楽は指揮者から生まれる……ように見える・思える。それは錬金術師以外の何ものであろう。彼は棒の一振り、目配せ一つで団員を操る。
……セルが用いた手段は、曖昧さなどこれっぽっちもない明快、かつ単純なものである。ともかく徹底して訓練し、きたえあげること。セルの手段とはこれであった。
「マス」を徹底的に訓練(トレーニング)して、「音楽」の「装置」にさせる。これである。
そういった、今日ではおよそ見つけようにも見つけられないようなハードはトレーニングを通して、セルは彼の意図する「音楽」を追及し続けたのだ。それこそが、現代の神話とまで高く評された、あの純度の高い音楽の再現であった。そこでは音楽は驚くべき均斉のとれた美しさを獲得していた。まるで、最良の古代ギリシャ美術の美の価値観が音楽の姿で体現され、その範を垂れているかのような見事さ。それは、まさしくセルとクリーヴランド管弦楽団に到来した勝利以外のなにものでもなかった。
「その範を垂れる」とはまさしく規律・訓練の目指すところだろう。そしてそれこそが、セル/クリーヴランドという楽団の勝利である。普遍的な美(西欧の、つまりギリシャ的な美)を獲得するためには、ハードなトレーニングが必要なのだ。
ここでフーコー。
規律・訓練の装置が完璧であれば、唯一の視線だけで何もかもをいつまでも見ることを可能にするだろう。一つの中心点が、あらゆる物事を照明する光源ともなろうし、同時に、知らねばならない事柄のすべてにかんする集約地点ともなるだろう。つまり、何ものをも見落とさぬ完璧な眼であり、すべての視線がその方へ向けられる中心である。
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社)
しかし現代では、こういったセルのような指揮者はいない。あるオーケストラを「誰々の手兵」と呼ぶのも、どこか違和感を感じる。最近では指揮者とオーケストラの権力関係は変化したようだ。