「フェミだの萌えだの」より
http://d.hatena.ne.jp/shizuma/20041015#p5
私が「やおい」で問題だと思っていること。
それは、書き手や読み手がどれだけ「これはリアルな男性同性愛とは無関係です」と言ったところで、その作品が「男性同性愛の形をとっている」ことから、作品自体が「男性同性愛」に関するイメージ(ポルノ的な、あるいはネガティブな、性暴力的な)の創出に手を貸しているということ。
その「やおい」を楽しむことが、「男性同性愛に対する差別行動」の一助になってるんではないかということ。
この辺はポルノの女性差別問題と絡めて色々話したい。
この指摘は重要だと思う。「やおい(論)」において、「これはリアルな男性同性愛とは無関係です」と「発話」することが、何かしらの「免罪符」になっていること──これが何よりおかしい。その「やおい」=ポルノが明確に「男性同性愛の形をとっている」のに、どうして、そこで「否認」が起こるのか。
小谷真理は、「やおい」が男性同性愛に<見える>からといって、それを非難するのはおかしい、「やおい」のカップリングは「新しい関係」だからだ、というようなことを言っていた。この小谷真理の「言説」は、差別する側/差別される側の「齟齬」が明快に表れている。
僕(たち)が「問題」にしているのは、「やおい」が、その「趣旨」はどうあれ、それが、端的に「男性同性愛」に<見える>からだ。「ステレオタイプを産出する側=やおい」の「事情」が「問題」なのではなく、「やおい」が、どうあっても、「男性同性愛の形」に<見える>こと。その「男性同性愛」にしか<見えない>「やおい」において、差別的言説が「産出」されているからだ。
「新しい関係/未来の関係」を重視するなら、なにも<同性愛に見える>必要はない。「物語」において、男性が女性をレイプして「レイプされてハッピーエンド」だと、レイピストと被レイピスト両者に「そのように発話」させればよいことだ。
ポルノと性差別をめぐっては、以前引用したアンドレア・ドゥオーキン以外にも、浅野千恵「性暴力映像の社会問題化」(『身体のエシックス/ポリティックス 倫理学とフェミニズムの交叉』、ナカニシヤ出版)を読んだことがある。この論説の「論旨」には僕は全面的に同意しかねるのであるが、しかし僕がここで参考にしたいのは、「ポルノそのもの」を「問題」にするのではなく、「問題化すること」、その「方途」についてである。
たしかスピヴァクも「自分の欲望によってそのようなテクストを作る男とは、いったい何なのか」と「問う」ことによって、「女」というカテゴリーは「分析の対象」ではなくなる、女が「問いかける主体」になる、と主張していた。
だったら、
ことによって、同性愛者は、「分析の対象」ではなくなる。「やおい」「やおい論」において、差別の記号=ステレオタイプを弄される同性愛者は、「やおい」を「問題化」することによって、「主体」になる。