フランスの哲学者カトリーヌ・マラブー/Catherine Malabou の『わたしたちの脳をどうするか』に興味深い指摘が載っている。「可塑性」(プラスティシテ)という彼女の提唱する概念についてである。
わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義
- 作者: カトリーヌマラブー,Catherine Malabou,桑田光平,増田文一朗
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2005/06
- メディア: 単行本
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マラブーは序論で「わたしたちの脳をどうするのか?」(Que faire de notre cerveau ?)という問いを立てる。なぜなら──脳はひとつの作品である、だがしかし、わたしたちはそのことを知らないからだ。マルクスが「人間は自分自身の歴史をつくる、そのことを知らないままに」といったことを、脳について流用する。脳と歴史の問題。脳と歴史を結ぶ関係性。ニューロサイエンスにおける革命的な諸成果──シナプスとその機能の発見を、いまだ「わたしたち」は自分のものにできていない。そのことを知らない。「ある新たな世界」の姿が見え始めているのに、それが人々に対して伝達も解放もなされていない。したがって「ニューロン人間」(L'homme neuronal、Neuronal Man)*1はいまだ意識をもっていないのだ。それはつまり「わたしたち」は「わたしたち」について、「わたしたち」の内部について、何もわかっていないということなのだ。
→ Neuron [Wikipedia]
”それ”について知ること──あるいは”それ”について知らなさ過ぎるということを知ること。脳はひとつの歴史である──脳を構成する歴史性が存在するのだ。だから、脳について意識を呼びさますことが、重要な問いになるのだ。
What Should We Do with Our Brain?
個人の冒険や歴史を巻き込む脳の固有の働きはある名前を持つ。すなわち「可塑性」〔plasticité〕である。脳を構成する歴史性とわたしたちが名づけたものこそ、まさに他ならぬ脳の可塑性(プラスティシテ)なのだ。中枢神経組織の可塑性、神経の可塑性、ニューロンの可塑性、シナプスの可塑性、医学部や大学病院のすべての神経学科で、そしてニューロサイエンスの研究組織と名がつくところで、わたしたちはこの言葉に出会うのであり、図書館の「脳」の項目を見ると、多くの場合この言葉が飛び込んでくる。科学雑誌では、この語だけで特殊な一専門分野名にすらなっている。
この言葉の頻出と偏在性はけっして偶然ではない。実際、可塑性は、ニューロサイエンスを統括する概念なのだ。前代未聞の力学・組織・構造を同時にもつものとして、脳を思考し記述することを可能にするかぎりにおいて、可塑性は今日、ニューロサイエンスの共通の中心的関心、支配的な主題、および特権的な操作図式を構成している。
わたしたちの脳は可塑的(プラスティック)である、だがわたしたちはそのことを知らない。この力学、この組織体、この構造について、わたしたちはまったく無知なのだ。わたしたちはいまだに「すっかり遺伝的に決定されている脳の〈硬直性〉」を信じ続けており、そのため、それをどうするかと問うことはまさしく見かけのうえでは無駄なのである。「脳」という言葉自体がわたしたちを怖がらせる。というのも、わたしたちは脳のあらゆる現象・襞・領野・層・機能局在について何も理解していないからだ。
カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(桑田光平&増田文一朗 訳、春秋社) p.8-9
プラスティック(合成樹脂)のように、ある物体に力を加えて変形を与えたとき、その外力が取り去れてた後にも、痕跡がそのまま残る現象──それが可塑性である。合成樹脂(plastique)は一度変形をこうむってしまえば二度と元の形には戻れない。この意味で「合成樹脂」は「ゴム」と対照をなしている──合成樹脂は刻印を保持する材料であり、その意味で多形性〔polymorphisme〕に抵抗する。可塑性はしなやかさと堅さを示している。
そしてマラブーによれば、「可塑性は硬直性を直接に否定するもの」「可塑性は硬直性の正確な反意語」なのである。”それ”は形を受けとる能力と、形を与える能力を同時に意味する。したがって、脳の可塑性について語ることは、脳を修正可能で、「形を受けとりうる」審級であると同時に、「形をつくり出す」審級として考えることに他ならない。
脳の可塑性(神経組織の可塑性)は、マラブーによれば、以下の3つのレベルで作用する。
すなわち、発達、経験、損傷の後で、組織の構造または機能において修正される特性だ。そしてもう一つ。”それ”が受けとり、つくり出すことのできる「形」(フォルム)を、消滅させること。
「プラスティック爆弾〔plastic〕」──そこから「プラスティック爆弾による爆破〔plastiquage〕」、「プラスティック爆弾で爆破する〔plastiquer〕」という語が派生する──が、ニトリグリセリンとニトロセルロースをベースにした猛烈な爆裂を引き起こすことのできる爆発性物質だということを忘れてはならない。このように、可塑性は二つの極のあいだに、すなわち、一方は形をなすという感覚的形象(彫刻あるいはプラスティックのオブジェ)、もう一方はあらゆる形の消滅(爆発)という二つの極のあいだに位置するのである。
「可塑性」という語はそれゆえ、彫刻的造形と爆燃すなわち爆発とのあいだでその固有の意味を展開する。したがって、脳の可塑性について語ることは、結局のところ、脳のなかに形を創造するものと受けとるものだけを見るのではなく、あらゆる構成された形に対する不服従の要素を、あるモデルに従うことへの拒否をも見ることになる。
『わたしたちの脳をどうするか』 p.11
そこでマラブーは「可塑性」と「柔軟性」〔flexibilié〕を区別する。混同してはならないと警告する。むしろ可塑性は、「見かけだけの友」である「柔軟性」によって絶えず置き換えられてしまっている。可塑性と柔軟性……
この二つの用語の差異はとるに足りないもののように見える。しかしながら、柔軟性とは可塑性のイデオロギー的変貌なのだ。柔軟性(フレキシビリテ)は、同時に可塑性(プラスティシテ)の仮面であり、乗っ取りであり、没収である。わたしたちは可塑性についてはまったく無知であるが、柔軟性については知らないことは何ひとつない。この意味で、可塑性は柔軟性に対する来るべき意識として現れる。
一見すると二つの用語の語義は同じである。辞書では「柔軟性」の項に次のように記されている。「第一に、柔らかいもの、容易に曲がるものの性質(弾性、しなやかさ)。第二に、環境に適応できるために簡単に変化する能力」。この二番目の意味の例として、だれもが知っているものである「雇用や時間割(調整されたフレックス・タイム)の柔軟性、フレックス制の職場……等々」といったものが挙げられている。
問題なのは、これらの意味が可塑性の意味領域のうちのひとつ──形を受けとるという意味──としか一致しないことだ。
柔軟(フレキシブル)であることは、形あるいは刻印を受けとることであり、適応〔se piler〕できることであり、襞がつく〔=慣れる(prendre le pli)〕ことであって、襞をつけることではないのである。それは従順であることであって、爆発することではない。
実際、柔軟性には形を与える資源(リソース)が、創造する力、発明する力、刻印を消去すらする力、しつける力が欠けているのだ。柔軟性とは、可塑性からその精髄を〔=天才(génie)〕を差し引いたものである。
『わたしたちの脳をどうするか』 p.22-23
The new way of speaking about the brain is a mirror image of the capitalist world in which we now live. "Plasticity," in connection with such an image, can have two meanings. In its neo-liberal meaning, "plasticity" amounts to "flexibility" -- in economics and management theory, "flexible" has become a buzzword. The plastic brain might thus represent just another style of power which, although less centralized, is still a means of control.
人間は自分自身の脳をつくる、そうしていることを知らないままに。わたしたちの脳はひとつの作品である、だがわたしたちはそのことを知らない。わたしたちの脳は可塑的(プラスティック)である、だがわたしたちはそのことを知らない。その原因はたいていの場合、柔軟性(フレキシビリテ)が可塑性(プラスティシテ)の上に重なっているからであり、それは完全なる「客観性」のもとで可塑性について記述していると信じている科学的言説おいてもみられることである。
ある種の認知科学の言説の誤りは、たとえば、心的なものを神経的なものに、精神を生物学的実体に還元してしまうことにあるのではない。「ニューロン人間」(Neuronal Man)は単なる神経的与件であると考え、政治的・イデオロギー的な構築物でもあると考えないことがまちがっているのだ。(p.23)
硬直性と柔軟性とのあまりにも単純な二者択一を越えること。「どこまでわたしたちは柔軟(フレキシブル)であるのか?」ではなく、「どの点でわたしたちは可塑的(プラスティック)なのか?」──そう問うのである。
What Should We Do with Our Brain?
カトリーヌ・マラブーは巻末のインタビューで「可塑性」という概念がヘーゲルに由来することを述べる。ヘーゲルには「多形性」(ポリモルフィスム)──単に受動的な審級に対する批判がある。「多形的」(ポリモルフ)には形を受けとりうるというひとつの意味しかない。しかし「可塑性」には形を受けとる能力だけではなく、形を与える能力も意味する。ヘーゲルにはおける主体は、すべてを吸収する準備のある一種の怪物ではなく、みずからに自分自身の形を与え、自己形成のプロセスのなかに巻き込まれている。
形をうけとることと、形を与えること──形成外科〔chirurgie plastique〕や造形芸術〔arts plastiques〕のことを思い起こしましょう──というのはこの二重の戯れはきわめて重要です。可塑性はヘーゲルの主体性が、超越論的主体の受動性と自発性に関するカントの思考の延長上に含まれることを確認させてくれます。しかしヘーゲルにおいては、受動性と自発性の関係は弁証法的・葛藤的であって、カントにおけるように単なる共存ではありません。
哲学の現状において、ヘーゲル哲学は時代遅れであると考えられています。ヘーゲルが今なおわたしたちの運命に影響を与えると証明することは非常に困難です。しかしながら可塑性の主題は、差異に対する弁証法からの遡及的なインパクトが、すなわち自分に対してなされたさまざまな攻撃に対して、ヘーゲルからのア・ポステリオリな一種の応答が存在すると主張することを可能にしてくれます。わたしはこのアポステリオリな応答にこそ興味があるのです。なぜなら差異の思考は、手っ取り早く言っていまえば、過去のものになったと思うからです。
最新著である『エクリチュールの夕べにおける可塑性』のなかで、私は形〔forme〕が痕跡〔trace〕に対して優位に立つということを再び示そうとしました。デリダが「エクリチュール」──統合なき差異化──と名づけたような、痕跡の移動として定義される運動は、グローバリゼーションとともにシステムや閉域を形成する現在の在り方を思考するうえで、もはや適切ではないのです。可塑性はまさに閉域の内部で作動する運動を思考させてくれます──この点はすでにニューロサイエンスにもつながることです。ある構成された全体の内部において、形の受容と贈与という活動が存在するのです。
日本語版インタビュー「わたしたちの可塑性をどうするか」(『わたしたちの脳をどうするか』より) p.167-168
What Should We Do with Our Brain? (Perspectives in Continental Philosophy)
- 作者: Catherine Malabou,Sebastian Rand,Marc Jeannerod
- 出版社/メーカー: Fordham University Press
- 発売日: 2008/10/15
- メディア: ペーパーバック
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*1:ジャン=ピエール・シャンジュー『ニューロン人間』