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ロンブローゾ・プログラム 「殺人=哲学」探求



「恍惚/Swoon」のエントリーで触れた、チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso)について初めて知ったのは、多分、イギリス──というよりスコットランドの作家フィリップ・カー/Philip Kerrの『殺人探求』という小説だったと思う。
原題は『A Philosophical Investigation』で1992年に出版された。

殺人探究 (新潮文庫)

殺人探究 (新潮文庫)

A Philosophical Investigation

A Philosophical Investigation


先に『ミステリマガジン』連載の、若島正による「殺しの時間」でこの『A Philosophical Investigation』が紹介されていて*1、「哲学で殺す」ミステリーに期待していたのだが、基本的に「正統な」ハードボイルド小説であるベルリン三部作と比べると、ちょっと難渋した覚えがある。近未来小説という「暗澹たる管理社会の」状況設定の把握とウィトゲンシュタインの哲学が組み込まれた難解さ以上に、「殺人者」の捜査=探求を通じて、「殺人」という概念自体が捜査=探求になっていくので、推理小説的なカタルシスが犠牲──つまり推理小説殺し、というわけか──にされた感があった。
しかし読み応えのある刺激的な「現代小説」であることには疑いはない。T・S・エリオットの『荒地』が読まれるラストでは、静かな戦慄が走る。


2013年のイギリス。大脳生理学の発達により、脳内に暴力性/攻撃性を抑止するVMN区域が発見された。と同時に、このVMNの「先天的な欠損者」も発見された──彼らを「特定」することが可能になった。「VMN欠損者/VMN-negative」が発現するのはすべて男性で、暴力犯罪者の多くがこの「VMN欠損者」であった。
したがって当局は、犯罪防止のため、イギリス人男性の脳を強制的にスキャンし、「VMN欠損者」をデータ・ベースで管理し、犯罪捜査に役立てていた。このシステムが、ロンブローゾ/ L.O.M.B.R.O.S.O. (Localisation of Modullar Brain Resonations Obliging Social Orthopraxy)と呼ばれるプログラムである。

決定論は、新世紀において自由を脅かすものだと見なされていない。先進の科学的捜査のために仮想された実用主義的な秩序には、異論をはさむ余地が少ない。このことが、従来の社会科学の趨勢、すなわち、決定論の対象を物質世界に限定し、ある種の”生物学的決定論”を打ち立てるためのすべての試みを実質的に”排除”することによって、自由を守ろうとする誤った思潮を、覆す前提となる。


現代の社会科学は、予測性と一般化を危険であるとは考えない。事実、人間の行動について一定の認識を確定せずには、社会科学のいかなる進展もありえなかったであろう。人間の行動に対し、無限の適応性を認める考えかたは、もはや効力を持たない。従って、暴力的な犯罪性がわれわれのなかに真の根源を持たず、あくまで外部的・社会的に作り出された現象であるとする思潮は、今日ではまったく根拠を失っている。




フィリップ・カー『殺人探求』(東江一紀 訳、新潮文庫) p.65-66


もちろん「VMN欠損者の人権」には細心の配慮がなされており、データベースのセキュリティは万全であった。しかも英国では、「人道的な刑罰」として昏睡刑──犯罪者を植物状態/コーマにする──が導入されており、犯罪者に対する死刑を含む肉体的懲罰から完全に解放されていた。

精神疾患そのものは、告発されるべきではない。この主旨に沿って、大半の陰性の被験者には、構造的人格検査に関する今日の標準的な研究結果が開示される。それによれば、旧来のMMPI(ミネソタ多面人格テスト)で精神病質偏差値(PD)の高い者は一般に攻撃的な性向を持つが、一方ではまた、PDの高得点は、職業俳優や、その他、並はずれた創造性を示す人たちに特徴的な傾向でもある。

みずからを精神遅滞者と見なす陰性被験者に対しては、R.D.レインの観点から、すなわち自己発見の旅という見地から、現状を自己評価することが奨励される。




フィリップ・カー『殺人探求』 p.70


そのようなイギリス社会で、連続殺人事件が起こる。被害者はすべて男性でしかも全員が「VMN欠損者」であった。被害者全員が後頭部をガス消音銃で撃たれていた。状況は、ロンブローゾ・プログラムの情報が漏洩しているとしか思えない。
捜査を担当しているジェイク警部──暴力被害を受ける「可能性のある」女性の立場から、あまりにも「思いやりに満ちた」ロンブローゾ・プログラムに反発している──は、ついにその殺人者とコンタクトを取ることに成功する。


以下は殺人犯であるコードネーム・ウィトゲンシュタインと警部のジェイク、ケンブリッジ大学の哲学教授ジェームスン・ラング卿との対話の部分である。

「自分を買いかぶっちゃいけないな、ジェイク」
「じゃあ、せめて、これ以上殺人の罪を重ねないよう、説得することだけはさせてちょうだい。人を殺すことに、なんの意味があるの?」
「意味はちゃんとあるんだよ、ジェイク。まあ、わたしが人を殺しているという事実、それから、わたしの行為の適法性や、わたしのしていることの妥当性を判定する基準が存在するという事実については、異論をはさむつもりはないが、基準そのものの内容まで、全面的に受け入れるわけにはいかない。わたしのしていること、これまでしてきたことに関して話し合おうというのなら、何より先に、その行為をどう言い表すかという問題をかたづけるべきだろう。善悪の概念とか、倫理一般とかいったものを、検証する必要があるかもしれない。わたしの行為が、刑罰に値するほどの公共の利益に反しているのか、それとも、正当なる殺人だと言い立てる余地があるのかを、ここで論じることもできるだろう」
「でも、それは単なる言葉遊びで──」
「わたしを失望させないでくれ、ジェイク。わたしの行為を違法と呼ぶか合法と呼ぶか、正当と見るか不当と見るかで、たいした違いがないのなら、言葉遊びだと言われてもしかたないかもしれない。だが”違法なる殺人”が”昏睡刑に服する”ことを意味するのだとすれば、むろん、この違いは大きい」
「あなたのしてきたことは、明らかに違法です。まともな社会ならどこでも、人殺しは悪いことだと見なされるでしょう」
「”人殺し”とか”まともな”とかいう言葉の使いかたについて、最初に講義が必要のようだね。例えば、必ずしもすべての人殺しが罰せられるべきではないという真理ならごく簡単に検証することができる。人殺しという言葉の定義を、殺す意図を持って誰かを殺した人間であるとしよう。しかも、社会も当の被害者もそれを望んでいないことを、この人間はじゅうぶんに承知している。さて、ブラウンがグリーンを殺し、有期の昏睡または懲役の刑に服したのち、社会に復帰した場合、彼はそれでもまだ人殺しであり続ける。ゆえに、すべての人殺しが罰せられるべきだという命題は、常に真であるとはかぎらない」



(中略)



「はじめまして」おずおずと、教授が口を開いた。「あなたが今述べられた例証は、不適切な哲学的文法にもとづいています。とりわけ、罰せられる”べき”という言葉の用法がね。しかし、意味論の問題はさておき、警部の言われたことは至極もっともです。人の行為の性格に対しては、普遍的な規範というものがあります」
「こちらも意味論でお答えしますがね、教授。それは、”普遍的”という言葉の定義しだいでしょう。わたしの行為の性格というとき、あなたは単に、通常の条件下における通常の観点から見た性格を想定されています。クラッパム地区のバスに乗ってくるような、平均的なロンドンの市民の視点です。クラッパムにまだバスが走っているかどうかは知りませんが。
だけど、教授、わたしはそういう規範を採用していないと、心に決めたのかもしれませんよ。わたしが採用することにしたのは、南アメリカの首狩り族の規範かもしれないし、カミュの小説の実存主義的な主人公の規範かもしれないし、もしかするとアナーキストの、右翼テロリストの、あるいは過激派フェミニストの規範かもしれない。そのいくつもの規範を、自分なりに寄せ集めたものかもしれない。わたしの行為の性格に対してそういう人々が下す判断も、クラッパム地区の死んだ目をした住人たちの判断と同じ程度には正しいはずです。とすれば、わたしの行為がひとつの性格しか持たないという考えかたは、否定されるべきでしょう。さもないと、あなたは偏見をお持ちだということになってしまう」
「しかし、社会とはそもそも、そういうものですよ。広く共有された善悪の規範による偏見の集合体」
「それが与えてくれるものは、わたしの行為についての真実ではありません。単なるうわべの真実でしかない。何千年ものあいだ、他人の資産を奪う行為は、盗みと呼ばれてきました。ところが、一世紀近くにわたって、世界のある地域では、そういう行為がマルクス主義の名のもとに公認されていた。同じ伝で、あしたの政治哲学は殺人を許容するかもしれません。あなたは、まともな社会の規範などとおっしゃっていますがね、ラング教授。しかし、核兵器を使って何万人も殺す命令を出したアメリカ合衆国大統領を偉人とたたえ、たったひとりの大統領を暗殺した人間を犯罪者と見なすような社会が、どれほどのものだというんでしょう?」
「おっしゃるのがハリー・トルーマン大統領のことでしたら、彼は戦争を終わらせるために行動したのです。命を救うために。原子爆弾を使わなければ、もっと多くの人命が失われたことでしょう」
「わたしの行為も、同じ動機から発しています。わたしが殺さなければ、もっと多くの人命が失われる」
「しかし、あなたはそういう選択をする立場にありません。それは社会に悪例を残します」
「あなたは保守的なモラリストのようですね、教授」
「そうかもしれません。ですが、あなたがどうやら拒絶しておられるその社会の視点から見て、あなたが逮捕され、罰せられなければならないことは、当然認めるべきでしょう」
「”べき”か」声をあげて笑う。「いや、わたしが認めるのは、その可能性だけですよ」





フィリップ・カー『殺人探求』 p.307-311

最初から記されているのでネタバレにはならないと思うが、殺人者ウィトゲンシュタインは「VMN欠損者」であり、彼が「兄弟である」VMN欠損者を殺害している事実こそが、VMN欠損者が「危険である」という「論証」を自ら行っている。VMN欠損者を殺すことによって、より多くの人命を救っているという動機を示しながら、だ。

ママとパパが、すべての元凶だ。




『殺人探求』 p.157


ジェイク警部は、哲学者ウィトゲンシュタインの『哲学探究』からの言葉「哲学におけるあなたの目的は何か? ── 蠅に蠅取り壺からの脱出法を示すこと」を刑事と哲学者の共通点として見出した。





[Philip Kerr Official website]

*1:1994年9月号