HODGE'S PARROT

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「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」




ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』のシューマンに関する部分を読んでいて思った。もしかして、この二人は、フリードリヒ・ニーチェシューマンに対する「悪口」を、それこそ肯定すべき「長所」と認識しているのではないか、と。

ニーチェは次のようにシューマンを評している。もちろん、相変わらずの口調である。

ところでロベルト・シューマンはというと、彼は音楽をむずかしく考え、また彼の音楽ははじめからむずかしいものと考えられてもいたが、──彼は一派を開いた最後の人である──。ほかならぬこのシューマンの浪漫主義が克服されたということは、今日のわれわれにとって一つの幸福、一つの安堵、一つの解放なのではなかろうか?


シューマンは彼の魂の<ザクセン・スイス>的な奥深いところに逃げひそみ、なかばヴェルテル的、なかばジャン・パウル的な天性をもっていたが、けっしてベートーヴェン的ではなかった! けっしてバイロン的でもなかった! ──彼のマンフレッド的音楽は不正といってよいほどの失敗であり、誤解である──。
シューマンは、根本のところ小さな趣味であった彼の趣味をいだいて(これは静かな抒情風と感情の陶酔にあこがれる危険な、ドイツ人には二重に危険な傾向であった)たえず横っちょに身をひそめたり、おずおずとしりごみしたり引きこもったりしている。その点では彼はまったく無名の幸福や悲嘆に耽っている貴公子然たる柔弱児であり、一種の少女であり、はじめからして「われに触るな」というわけであった。


要するにこのシューマンは、すでにもう音楽におけるドイツ的一事件にすぎず、けっして、ベートーヴェンがそうであったような、またもっと広大な規模のものとしてはモーツァルトがそうであったような、ヨーロッパ的事件ではなかった。
──シューマンの出現とともにドイツ音楽は、ヨーロッパの魂への呼びかけを失って、たんなる愛国主義に堕するという最大の危険におびやかされていた。




フリードリッヒ・ニーチェ善悪の彼岸』(信太正三 訳、筑摩書房ちくま学芸文庫) p.273-274


これにドゥルーズガタリのテクストを対比させてみる……じゃ、つまらないので、ジャック・デリダを引用したみたい。

ニーチェは、今日? (ちくま学芸文庫)善悪の彼岸』の冒頭は、次のとおりです。「真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、定論主義者(ドグマティック)であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかった(sich schlecht auf Weiber verstanden、女性に関して理解が劣悪であった)のではあるまいかと疑うべき理由があるのではなかろうか。そして、これまで彼らが真理を追究するにあたって採った恐るべき真剣さとか不器用な不謹慎さとかは、女っ子をものにするためには排劣で不適切な仕方だったのではあるまいかと」。


ニーチェは、このとき、女性の真理なり真理の真理を転回させて、次のように述べております。
「女性が取り込まれるがままにならなかったのは確かである。──そして、それぞれの種類の定論主義者たちは、今日、みじめで意気消沈した姿で立ちつくしている。これとても、それがなお立ち姿なのだと想定しての話だ!」


女性(真理)は、取り込まれるがままにはならないのです。
真実において、女性とか真理は、取り込まれるがままにはならないのです。




デリダ「尖鋭筆鋒の問題」(『ニーチェは、今日?』より、森本和夫 訳、筑摩書房ちくま学芸文庫) p.249-250

テクストの布地(toile)の中において、ニーチェは、自分を通じて生成されたものに匹敵しない蜘蛛のように、いささか難破しているのです。一匹の蜘蛛のように、あるいはニーチェとかロートレアモンとかマラルメとかフロイトとかアブラハムといった何匹かの蜘蛛のようにと申しましょう。


彼は、そのような去勢された女性であり、そのような女性を恐れていたのです。
彼は、そのような去勢コンプレックスを引き起こす女性であり、そのような女性を恐れていたのです。
彼は、そのような肯定者的な女性であり、そのような女性を愛していたのです。



(中略)


善悪の彼岸』の中で、≪meine Wahrheiten sind 〔私の真理である〕≫という強調体を用いて「それらは私の諸真理なのだ」と読まれるのは、まさしく、女性たちについての一節〔『善悪の彼岸』231〕においてであります。私の諸真理というのは、それらが多様で雑色で矛盾的であるがゆえに、真理ではないことを、おそらく含意しています。そんなわけで、真理そのものは存在しないのですが、その上、私にとって、私についてさえも、真理は複数なのです。




デリダ「尖鋭筆鋒の問題」 p.285-286


大抵の場合──と一般化するが、シューマンの音楽を愛する者にとっては、『善悪の彼岸』におけるニーチェの「物言い」は、反発を呼び覚ますものである。しかもあのヴァークナーに対する「御託」がうざい。シューマンのファンは──と、また一般化するが──ブラームスが好きであり、(反ユダヤ主義の)ヴァーグナーを通り越して、グスタフ・マーラーに関心を抱く人が多いのではないか。シューマン交響曲を「正当に」評価したがために、オリジナルのスコアに手を加えて、演奏会のレパートリーにした指揮者=作曲家のマーラーに。

しかしデリダを通してニーチェを読み返すと、ニーチェが「こき下ろす」シューマンなるものを、実は、ニーチェは愛していたのではないか。というより、「その」シューマンが、実は、ニーチェ自身なのではないか。ベートーヴェンでもバイロンでもなく”まったく無名の幸福や悲嘆に耽っている貴公子然たる柔弱児であり、一種の少女であり、はじめからして「われに触るな」というわけであった”ニーチェ。”ドイツ的一事件にすぎず”でありたいニーチェ。そして自分の出現によって、「出現とともにドイツ哲学は、ヨーロッパの魂への呼びかけを失って、たんなる愛国主義に堕するという最大の危険におびやかされていた」と感じるようなニーチェ。そんな、シューマンニーチェを恐れ、しかし愛していた、ニーチェ


もちろん、シューマンニーチェ/女性/真理は、デリダが言うように、「取り込まれるがままにはならないのです」。



内田光子の演奏による、シューマンのファンタジーが迸る≪クライスレリアーナ≫と≪謝肉祭≫を聴きながら、そんなことを思った。

シューマン:謝肉祭/クライスレ

シューマン:謝肉祭/クライスレ




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(中略)



ピンク・パンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように、流れとしての老人について人は言う。




ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ千のプラトー』(宇野邦一 他訳、河出書房新社) p.22/38