HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

マインド―心の哲学

渋谷の本屋でルネ・マグリット──僕の大好きな画家だ──のカヴァーに惹かれ手に取って数分後、向かい側のスターバックスで「抹茶 ティー ラテ」を飲みながら、ジョン・サール『マインド―心の哲学』のページを開いていた。この精神現象はどういうことなんだろう? 

マインド―心の哲学

マインド―心の哲学


ジョン・サールというと、デリダに批判されたことがあって、なんか「悪者」のイメージがあるのだけれども、写真を見ると温和で「良い人」みたいな気がするから不思議だ。でもってサールは、カリフォルニア大学バークレー校の教授、つまりジュディス・バトラーの同僚でもあるようだ。
ま、最近僕は、Derrida S.A. がウザくなってきたので、サールを読むにはちょうどいい。


そうそう、J.R.サールの著作を読むのは初めてだと思っていたけれど、ブライアン・マギー編『西洋哲学の系譜』(晃洋書房)で、ヴィトゲンシュタインについて解説していた人が Sarl その人だったことを思い出した(ちなみにアリストテレスの解説者は、ジュディス・バトラー批判が強烈なマーサ・ヌスバウム*1)。

心の哲学における彼(=ウィトゲンシュタイン)の貢献も同様に重要です。彼は、デカルト哲学の伝統、つまり生命が精神的部分と物質的部分という二つの部分から構成されているという考えに対抗する、もっとも有効な攻撃を企てたのです。そしてデカルト哲学へのこの攻撃は、もし二元論を拒否するならば、精神現象も拒否しなければならないと考えるような、まさにたいていの反デカルト主義者の犯す間違いを犯していないがゆえに、いっそう強力なものなのです。たいていの反デカルト主義者は二元論を拒否した場合、ある種の行動主義もしくはある種の未熟な物質主義を受け入れねばならないと考えています。


ウィトゲンシュタイン心の哲学は、精神現象を記述するための語の使用を注意深く調べることによって進行して行きます。文字通り後期の作品の何百というパラグラフを割いて彼は、「意味する」、「知っている」、「見る」、「期待する」、「恐れる」、そして「疑う」、「希望する」、その他多くの心理的動詞を、われわれがいかに使用しているかということについて議論を遂行しています。
もしこの語彙の「深層文法」を調べるならば、心理的、物質的といった二つの別々の現象を見いだすことはないということを、ウィトゲンシュタインはかなり詳細に示しています。




ジョン・サールとの対話」(『西洋哲学の系譜』より) p.470-471

*1:Martha Nussbaum "The Professor of Parody"