ジョン・サールの『マインド―心の哲学』に、チューリング・テストと「中国語の部屋」に関する議論が載っているのだが、ざっと目を通してみて、きちんと理解できているかどうか、自信がなくなってきた……もう一度しっかり読み直してみよう(笑)。
サールの議論で重要な役割を果たしている「志向性」というタームについてメモしておきたい。
志向性とは……冨田恭彦の『対話・心の哲学―京都より愛をこめて』を参照すると、「心がなにかに向かっていること」で、例えば「信じているとき、それは、一般に、ある事態を信じているわけ」である。
「例えば、私が『今日はいい一日だった』と信じている場合ですと、その『今日はいい一日だった』という事態を、私は信じているわけですね」
「そうそう、なんらかの事態とか(場合によっては対象とか)を信じることなしに、信じるということがあるでしょうか」
「そんなことはありえません」
「ですよね。そのような場合、心はそうした事態に向かっていると考えられるわけです」
「それが、志向性なんですね。とすると、なにかを望んでいたり、なにかを愛していたり、なにかを恐れていたりするときも、やはり、心はなにかに向かっている、ということですね」
「そうそう。それもまた、心の志向性という在り方なんです。……つまり、心が向かっている対象や事態、つまり、志向されている対象や事態は、心が関わるものでありながら、それ自体は、一般に、心の外のものなんです」
「ああ、わかります。なにか食べたいなんて思っているとき、その食べたいものは、心の中に存在するなにかではなくて、レストランにあるなにかだったりして」
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で、サールの説明。
志向状態は一般に、単独では存在しない。たとえば私が「雨が降っている」と信じている場合、私がその信念を単独でもつことはありえない。なぜならそのとき「雨が降っている」という信念とともに、雨が水滴から成ること、空から落ちてくること、一般に上ではなく下へ向かうこと、地面を濡らすこと、雲から発生することといった事柄を、多少漠然とであれ私は信じているはずだからだ。もちろん、「雨が降っている」という信念をもちながらも、他の信念をもたない人がいるかもしれない。
しかし一般的に、「雨が降っている」という信念は、もろもろの信念や他の志向状態から形成される「ネットワーク」に占めるその位置によって、はじめてそのような信念となりうる。ある人の志向状態の総体は、精巧に相互行為するネットワークをかたちづくるものと考えられる。どんな志向状態も、ただその充足条件を決定するだけであり、その志向状態が織り込まれているネットワークとの関係においてはじめて機能できる、とさえいえるのだ。
たとえば私が「自分は車を所有している」と信じているなら、私は車が交通手段であること、車とは一般道や高速道路で走らせるものであること、あちこちに移動するものであること、人が乗り降りするものであること、売り買いできる財産の一部であること、といったこともまた同時に信じているはずだ。
このネットワークの糸を最後までたどると、最終的には一群の技能、つまり世界とのかかわり方、傾向性、諸能力全般にたどりつくだろう。私はそうした能力をまとめて「バックグラウンド」と呼んでいる。
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