HODGE'S PARROT

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「殺したのはおまえたちだ!」




未完の『魔王ダンテ』を読み終えた後、その圧倒的な感興に打ちのめされながら、ふと古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』に書かれてあった印象的な部分を思い出した。それは従来の神とは別の神、「存在が起点になり、存在が織りあげる、存在のための神」、すなわち「存在《の》神」(存在の後光、光背)についてである。

ニーチェ同様に、かれも思う。神は死んだ。「最初に設定された神」や「途中ですがる神」。そんな神なら死んだ。死んでもいい。そんなものは神じゃないからだ。<ほんとうの神>は、だから──おそらく原始キリスト教の崩壊のあとずっと──死んだままだった。
殺したのは、神学者をふくむ、とりわけ近代人だ。「殺したのはおまえたちだ!」(『悦ばしき智慧』断章128番)。そんなニーチェのような激しいことばをはくのは、ハイデガーの流儀ではないが、思いはいっしょだった。

ニーチェのように真剣に<神の死>を語り、それに命をかけるものは、<無神>論者ではない。そう思うのは、神をまるでポケットナイフのように考える者だけだ。つまりどこかに失せたということは、それが無くなったのだというわけだ。だが神を失うとは、そんなナイフの喪失のようなものではない。ニーチェのような無神論には独特の事情がある。怠慢すぎるのか巧妙なのか、伝来の信仰の檻のなかにのほほんと座して、その信仰を突き倒されたことのない多くのものたち、かれらは、<神が死んだ>ことを真剣に考えたニーチェのような大いなる懐疑家よりも、無神論者だ」

その<神の死>を真剣にひきうけて、さまよい、惑い、苦しみ、死ぬほどの破局のはてに、まるで思いもしなかった「別の神」を体験する。それは、最後に神さえ想うほど、深く真正面から、存在の真理(存在神秘)に撃たれたことの別表現。そしてそれだけのこと。そう、ぼくはいまでは思っている。




古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書) p.58-89


さらに古東氏は、ウィトゲンシュタインハイデガーと同じことを言っていることを示し、その「思い」を強くする。

よくしられているように、ウィトゲンシュタインは、いろんなかたちで、「ぼくは世界の存在に驚く」、「この世界が在るなんてことが<ある>ことが法外だ」と語る。いわゆるタウマゼイン(存在驚愕)の体験をつたえるエピソードである。これはハイデガーとまったく同じ内実。「わたしには、ハイデガーが、存在とか不安という言葉で、なにを考えているのかよくわかる」*1といっていたウィトゲンシュタインのことだから、そう考えていいはずだ。


さてその上でマルカムは、つぎのようなウィトゲンシュタインの考え方を伝えている。

「彼の考えでは、<私は世界の存在に驚く>というこの経験が、神がこの世界を創造した、という考えの背後に隠されているのである。この経験は、<世界を奇跡としてみる>という経験であった。かれはまた、〔世界を奇跡としてみるという〕この<絶対的な安らかさの経験>は、<神の手の中で安らぎを感じる>といった考えと結びついていると、考えていた」(N・マルカム『ウィトゲンシュタインと宗教』黒崎宏訳、10頁)

とてもわかりやすい話である。まずは世界の存在への驚きの経験がある。世界が在るなんてことが<在る>ことを奇跡と感じるほどの、それは不可思議さに撃たれる体験。この存在神秘の体験が、そのあまりにもの<説明できなさ>ゆえに、説明の方便をもとめて、「神創造のおとぎばなし」をうみだしたほどだった。


だから、<神のなかで安らぎを感じる>と、宗教物語風にいってもいいのだが、べつにそんなことをいわずともよい。世界の存在に驚くそのとき、「わたしは安らかである。なにが起ころうとわたしを傷つけることはできない」といえるほどの、深い覚醒の時を生きるだけのことである。





ハイデガー=存在神秘の哲学』 p.59-60

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)



あるいは、上野修の『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』の印象的かつ激越な部分。

神学者は理性なしに狂い、哲学者は理性をもって狂ってしまう! 「何と滑稽な敬虔であろう」とスピノザは言っている。今に始まったことではない。聖書がそっくりそのまま真理を語っていると言ってしまったときから、すでにすべてが狂っていたのだ。


神学者は哲学者と「聖書の真理」をめぐって激しくやり合っているわけだが、実は、彼らも自分好みの哲学を勝手に聖書に読み込んでいるだけかもしれない。実際、神学者たちは「深遠なる秘儀」などと言っているけれど、たいていはアリストテレスプラトンの亜流の思弁の密輸入であるとスピノザは指摘している。


そういえば「神学と哲学」という論争は、もともと大学の神学部と技芸学部の対立に発していた。信仰を問題にしているように見えて、その実、権力闘争がらみの新旧の哲学論争なのである。さきに「教会や議場において哲学者たちの論争が激しい感情をもって交わされている」とスピノザが言っていたのはそのことだった。彼らはだれも神学と哲学の本当の分離を知らない、だから聖書解釈に勝手な自分たちの哲学的思弁を持ち込んでしまうのだ。




上野修スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版) p.40




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*1:1929年12月30日、「シュリック家での談話、ハイデッガーについて」