これまで読んだ「ちくま新書」の中で、僕の個人的なベストは、やはり永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』だ。何よりも著者の「問題設定」にグッときた──感動した。
永井氏は序章で「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いについて記す。子供のころから考えていたのだという。「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という疑問だ──それが不思議でならなかった。しかも、誰も「そんなこと」を不思議がっているように見えなかった。さらに不思議に思ったのは「そんなこと」とはいったい何だ、ということである──私自身とまわりのみんなに共通の「そんなこと」など、本質的に、あるのだろうか?
「僕はなぜ生まれてきたのだろう」という問いに、ある聡明な友人は「両親がセックスしたから」と答えた。その答えに著者は失望した。問題は「どうして<僕が>生まれてくる理由があるのだろう」ということを、その「聡明な」友人は理解しなかった──あるいは「そんなこと」を深刻で意味のある問いであるとは受け止めなかったのかもしれない。
私が言いたかったことはこういうことだ。これまで無数の男女がセックスをして、無数の子供が生まれてきた。これからも生まれてくるだろう。そのうち一人が私であった。しかし、私など生まれてこないこともできたはずである。現に1951年までは、私がいない世界が続いていたし、2100年には、またまちがいなく私のいない世界が存在し続けるであろうから。
しかし、どういうわけか、私は生まれ、今ここにこうして存在している。
そして、それは永井均という名づけられた人間が生まれたということとは別のことである。なぜなら、永井均という名のその人間が生まれていながら、それが私でなく他人(というよりむしろ単なる一人の人間)にすぎないという状況は十分に考えられることだからである。
永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書) p.17-18
やはり「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という問いである(この問題設定は、マーガレット・ミラーとロス・マクドナルドの、まさに「さむけ」を感じながらも魅了されてしまう小説を読んだときの不思議な感覚を僕に思い出させる)。
この問題についての解答を求めていた最中、著者は、「そんなこと」の不思議さの意味を、ウィトゲンシュタインの文章に発見した。
私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味していない。だが私がたまたま今、事実としてL・ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語はL・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」と。(中略)
しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。(『青本』117頁)
私が何よりも感動したのは、「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という最後の一文である。
『ウィトゲンシュタイン入門』 p.19-20
これには僕もグッときた。
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