ここのところ<良心>の問題について考えていて──とはいっても四月は忙しい月なので本を読んだりする時間がなかなか取れないのだが──昨日はマーサ・ヌスバウムの『幸福な生の傷つきやすさ』を読んだ。ヌスバウムはアリストテレスに則して「よく生きる」ことについて、とりわけ「道徳」と「運」の関係について考えさせてくれた。後で感想のようなものを書きたいのだが、その前に、id:Arisanさんのプラトンの『国家』の解題のエントリーを読んで、いわゆる「詩人追放」の部分で僕がこれまで漠然と感じていたもやもやした思いが、そこで非常に明確に言語化されていた。とても納得のいく説明だった。それについて引用させていただきたい。この点についても後で整理できたらと思う。
プラトンは、ここでは詩を非難しているというよりも、詩に対する「大衆の恋」こそを遠ざけようとしている、と見るべきだろう。
つまり、危険は、虚構それ自体にあるのではなく、虚構を言い訳にして自分の欲望に対する抑制という、倫理的な義務が履行されなくなるということであり、またそのような「大衆」的な怠慢に、われわれはきわめて容易に陥る、という事実である。
その意味では、危険は「虚構」にあるのではなく、虚構をそのように使用して、自分の欲望と経験的な現実との関係を歪めてしまおう(非現実化しよう)とする、われわれの抜きがたい傾向にこそあるといえる。
別にフィクションだのバーチャルだのの手を借りなくても、われわれは日常を、現に容易に非倫理化しているのである。
プラトン『国家』メモ・その3 [Arisanのノート]
また、プラトンで思い出したのだが、藤沢令夫の『プラトンの哲学』で、<悪>と同列対等である<善>と、それらを超えた、そういったイデア自体の存立の究極原因である≪善≫について記している部分についてもメモしておきたい。要するに単なる<善>と窮極の根源価値としての≪善≫の区別である。
「よいこと」をまさに<善>としてほんとうに知ることが、それ自体有益でよいことであるのはいうまでもないが、「悪いこと」を「よいこと」と混同せずに、まさに<悪>としてほんとうに知ることもまた、そのこと自体は有益でよいことである。このような事態を成立させている最終的な根拠が≪善≫であり、そして≪善≫でしかありえない。
というのは、この根源的レベルでは、<善>がイデアとして<美>や<正>と同列対等であったようには、≪善≫と同列対等の≪美≫や≪正≫といったものを考えることはできないからである。
「醜いもの」をまさに<醜>としてほんとうに知ることは、有益でよいことであるが、しかしそれが美しいことであるというのは、少なくとも自然な言葉使いではない。同じく、「不正なこと」をまさに<不正>としてほんとうに知ることは、有益でよいことであるが、正しいことであるとは言えないだろう。
これらの事態を成立させている窮極の根拠は、やはり≪善≫でしかありえないのである。
そしてそこからアウグスティヌスの思索について、やはりメモしておきたい。
「われわれはわれわれ自身のうちに神の似像(imago)を発見する」とアウグスティヌスは言う(『神の国』第11巻26章)。「すなわち、われわれは存在し、自分が存在していることを知り、また、その存在と知を愛するが、この構造が神の三位一体の似像である」と言う。
彼は何を言っているのだろうか。
私たちは、自分自身が存在することを、自覚的に知っている。この知は、私たちの外部にある色や形をもった対象的事物を知覚するような場合の知とは、異なっている。後者のような場合には、認識する者と認識される対象的事物とは分離しているから、いつでも誤謬の可能性があり、認識される対象的事物が存在しないこともおこりうる。例えば、幻を見ているような場合である。
これに対して、自己認識においては、認識するものと認識されるものとが分離していないから、自分が存在することは絶対的に真なのである。なぜなら、真理とは認識するものと認識されるものとの合致であるが、自己認識においては、ことがらの本性上この合致が必然的に成立しているからである。
「それゆえ、もし私が欺かれるとすれば、私は存在する。なぜなら、存在しない者が欺かれることはありえないのだから」
(中略)
私がだまされているとすれば、私は存在する。そして、私はそのことを知っているのである。なぜなら、私が存在すると自覚することは、そのことを知っていることだからである。
岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書) p.151-153
アウグスティヌスは、神の秘儀の上に外側から範疇を投影することはしない。むしろ自分自身を支点にして、自分自身の上に注ぐ視線の透入度を深める。そしてそこから神に向かって戻るのである。「秘儀は照らすものであるからこそ、また、創られたものの上に、とりわけ精神の上に、それ自身の光の反映を投げかけるものであるからこそ、照らされるのである」。
神は永遠の存在、真理そのもの、愛そのものとして、われわれ自身の心の奥底の、さらに彼方で、われわれを待っている(『告白』第10巻第24〜27章)。
『ヨーロッパ思想入門』 p.154
あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。
ペトロの手紙 1.3 15-16 (新共同訳『聖書』より)
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