mk さんが解説している、ヘーゲルの『歴史哲学講義』が面白そう……というわけで、本棚を捜してみたら、あった。
中国における、侮辱を受けたものが行う「最高の復讐」──自殺という行為。なぜ自殺が復讐になるかと言えば、自殺者の敵のすべてがよびあつめられて拷問を受け、そして侮辱したものがつきとめられると、その人物はもちろん、その家族全員が死刑に処せられるからだ。だから侮辱を受けた者は自殺をするのである──復讐のために。
そして、その「事実」を受けて、ヘーゲルは、次のように記す。
中国流の罪の問いかたのおそろしい点は、行動者の主体的自由や道徳心の一切が否定されることです。モーゼの律法でも、犯意と過失と偶然事は厳密に区別されてはいませんが、それでも、あやまって人を殺したものは、隠れ家に身をひそめることができるのです。中国ではまた、犯罪者の身分の上下はまったく考慮されない。
ただ、これらが本当にあった出来事なのかは僕にはわからない。第一、ヘーゲルが実際に中国に行って見て調べたのかさえも知らない。むしろヘーゲルが中国の歴史を盗用・横領(appropriate)して、自分たち西欧人の精神の歴史/歴史の精神のために利用/捏造しているのじゃないかと思う。そういった意味で、mk さんが書いているように「あらゆる歴史はフィクション」なのかもしれない。
しかしそれでも、(都合よく──誰の?)否定的に扱われた中国人の感情は複雑であろうことは想像がつく、なぜならば、やはり mk さんが記しているように、中国こそが「こだわりを持って歴史/フィクションを編纂=捏造」していたからだ。
そういえば、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』には興味深いことが書いてあった。メモしておきたい。
ところで、欲望とは何であろうか。──この点では一般に「空腹」と呼ばれる欲望を考えるだけで十分である。──それは、観想された物を行動によって変貌せしめ、私の存在と何の関係ももたず私からは独立しているその存在において物を廃棄し、その独立性において物を否定し、それを私に同化し私自身のものにし、私の自我の中にそれも私の自我によってその物を呑み込んでしまおうという欲望にほかならない。
したがって、自己意識が存在するためには、そしてまた哲学が存在するためには、人間の中に肯定的、受動的で、ただ存在を開示するだけの観想が存在するだけではなく、否定する欲望並びに所与存在を変貌せしめる行動が存在しなければならない。
人間の自我は欲望の自我すなわち行動的自我であり、否定する自我すなわち存在を変貌せしめる自我、所与存在を破壊し新たな存在を創造する自我であらねばならない。
では欲望の自我──例えば、空腹な人間の自我とは何であろうか。それは内容を渇望する空虚、内容に満ちたものによって自己を満たそうとする空虚、この内容に満ちたものを空にして自己を満たし──いったん満たされるや──この内容に満ちたものにとって代わり、自己のものではなかったこの内容に満ちたものを廃棄することで生まれた空虚を、満たされた自己の内容によって占めようとする空虚にほかならない。
(中略)
ヘーゲルによれば、動物は植物を食べることによって植物に対する自己の優位を実現し開示する。だが、植物によって自己を養うことによって、動物は植物に従属することになり、そのため真に植物を超えるには至らない。
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