ウルトラセブン第26話「超兵器R1号」について、とても参考になる解説サイトを見つけた(via.b:id:ogiso)。
「それは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」by諸星ダン ウルトラセブン第26話 超兵器R1号 [毛蟹の味噌並]
実は、R1号の実験には、防衛軍の中でダンだけが反対でした。
地球を守るために、生物がいない(とされていた)にしろ星を一つ消し飛ばす。
そんなことをして良いのだろうか?
そんな疑問に、開発者達は気楽な回答をするばかり。曰く
「実験をすることによって、地球の強さをアピールできる」
「地球がこんな兵器を持っていることが分かれば、誰も侵略に来ないさ」
「持っているだけで平和になれるなんて、素晴らしい」まるで、アメリカが第二次世界大戦において日本に原子爆弾を落とし、
その力を見せつけたために、アメリカは強い国だと認められた。
そんな口振りです。
まぁ、実際その通りですが(おい
ダンは理解の通じない開発者相手にいらだちながら聞き続けます。
「もし、宇宙人がもっとすごいミサイルを開発したらどうするんですか?」
しかし、開発者は平気で答えるばかり。
「そしたら、こっちがもっと破壊力のある兵器を開発すればいい」
開発者や、他の仲間達の気楽な考えに打ちのめされたダンは、
悲しみを込めて呟くのです。
「それは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」
このウルトラセブン『超兵器R1号』における「問題提起」は、子供心にもずっと引っ掛かっていて、後に米ソ冷戦時代の軍拡競争について学んだとき、強烈な印象を呼び起こした。とくに物語のラスト、モロボシ・ダンの諦念を思わせる表情のアップに、回転車をひたすら回し続ける無垢な白鼠の映像が重なるシーンが忘れられない。
Wikipediaの説明でもウルトラセブン独特の「問題提起」について触れている。
まず、遊星間侵略戦争により地球が多くの宇宙人に狙われているという新たな世界観が加味されている。そのため、地球防衛軍という世界規模の軍事組織、特撮の見せ場となる超兵器の発進プロセス、敵宇宙人に対する諜報戦として描かれることが多いなど、軍事色が強い作品カラーになっている。これらの設定には当時の冷戦の存在が大きく反映されている。また、個々のエピソードもドラマ性が重視され、「地球人自身が地球侵略者の末裔ではなかったか」という疑問を投げかけ、主人公の正義を根底から揺さぶった第42話「ノンマルトの使者」や、地球防衛軍が行った新兵器実験の犠牲になった宇宙怪獣の悲劇を通して軍拡競争への批判を描いた第26話「超兵器R1号」など、娯楽作品の枠にとどまらない重いテーマの作品が続出した。
ところで、ウルトラセブン『超兵器R1号』に見られるような際限のない「暴力の応酬/力の極限行使」は、理論上/概念上、戦争における最大の特徴であると『戦争論』の著者クラウゼヴィッツが述べていることを思い出した。
クラウゼヴィッツは、戦争における三つの相互作用と三つの無制限性(暴/力の極限行使)を定義する。
つまり戦争とは暴力行為のことであって、その暴力の行使には限度があろうはずがない。一方が暴力を行使すれば他方も暴力でもって抵抗せざるを得ず、かくて両者の間に生ずる相互作用は概念上どうしても無制限なものにならざるを得ない、と。これが戦争についてわれわれの直面する第一の相互作用であり、また第一の無制限性というものである。
ところで戦争とは、生きた力が死せる量塊へ働きかける行動ではなく、あくまでも生きた力と生きた力との衝突であって、しかも相闘う両者について等しくあてはまるものでなければならない。したがって、ここでも再び相互作用が問題になってくる。私が敵を未だ打倒してしまわぬ限り、私は敵の方が私を打倒するのではないかと常に恐れていなければならない。
こうなると私はもはや私の行動の主人であるわけにはゆかず、私の行動は敵によって惹き起こされるものとなる。それと同じ関係は敵についても言えることである。これが第二の相互作用であって、やはり第二の無制限性を惹き起こすものである。
『戦争論』p.39-40
敵を打倒しようとするなら、まず敵の抵抗力を知り、それに応じてわれわれの発揮せねばならぬ力を加減しなければならない。敵の抵抗力は分離しがたい二要素からなる。一つは既存の諸手段の大小であり、二つは意志力の強弱である。
既存の諸手段の大小は数量的なものに基づいているから(必ずしも全体について言えるわけではないが)測定することができる。しかし意志力の強弱は測定し難く、ただ動機の強弱によって推測できるにすぎない。ともかくこのようにして敵の抵抗力がほぼ推測できたなら、それに基づいてわれわれの発揮すべき力も加減できる。つまりそのことによってわれわれは敵の抵抗力を凌駕するに足るほどの力を発揮でき、またこちらにそれだけの能力がなければ、可能な限りそれに近い力を発揮することができる。
しかし事は敵にあっても同様である。それゆえ、ここにもまた相互に対立しつつ登りつめてゆく新しい闘争が生まれ、理論上これも再び無制限なものとならざるを得ない。これが戦争における第三の相互作用であり、第三の無制限なものである。
『戦争論』p.40
クラウゼヴィッツは、このような悟性による抽象的、概念的、純粋理論的な戦争を「絶対的戦争」と呼び、暴力が極限にまでエスカレートすることは、観念的である以上、避けられないことだと指摘する。
一方、そのような「論理上の夢想」とは異なる実際の戦争を「現実の戦争」と呼び、それと対立させる。「現実の戦争」は、さまざまな要因に左右され、現実活動における蓋然性が問題となる。この「現実の戦争」による理論的/概念的戦争の否定が、無制限な力の発動を「修正」し、力の極限行使に至る「絶対的戦争」を阻止する、と説く。
さらにこの「絶対戦争」と「現実戦争」の対立から、「核抑止戦略」をヘーゲルの「戦争の言説」に、「人民戦争戦略」をクラウゼヴィッツの「戦争についての言説」とにわけて検討したグリュックスマンについて、笠井潔と市田良彦の著書から引用しておきたい。
▼著者(=グリュックスマン)によれば、ナポレオンに体現される近代戦争の現実は、対極的な二つの思考をもたらした。第一は、「戦争という無秩序それ自体を支えている秩序を定式化」したクラウゼヴィッツの「戦争についての言説」であり、第二は、「戦争という無秩序から生まれる秩序を構想」するヘーゲルの「戦争の言説」ということになる。
▽「戦争についての言説」と「戦争の言説」か。なんだかよくわかんないな。
(中略)
▼グリュックスマンの理論も、ようするにそういうことさ。きみの言葉を借りていえば、ヘーゲルは無我夢中で遊びほうけて飽きない子供の無秩序に、つまり学校の秩序を対置する。クラウゼヴィッツは、学校の秩序が崩壊して出現する子供の無秩序の底に、学校の秩序よりも本物の秩序を発見した。と、まあ、グリュックスマンは主張したわけだ。
その本では、ヘーゲルの「戦争の言説」を徹底化するものとして核抑止戦略が、そしてクラウゼヴィッツの「戦争についての言説」を徹底化するものとして人民戦争戦略が検討されている。
周知のように、クラウゼヴィッツもまた、ヘーゲルと同じように、自己の戦争論を練り上げるにあたってナポレオン戦争をモデルにした。しかし、ヘーゲルが戦争(とそこにおける死)を人間の本質にし(「人間とは戦争する者である」)、そして、かの主語と述語の弁証法的転倒によって、逆に戦争を人間の主語=主体にしてしまった(「戦争が人間を規定する」)のとは異なり、クラウゼヴィッツはどこまでもこの転倒を拒んでいるかのように見える。
つまり、ヘーゲルにあっては、フォイエルバッハによるヘーゲル批判の論理を借用すれば、人間の行う戦争がどこまでも自立的なものとされ、内的メカニズムが固定されたこの戦争が人間を作る、とされるのに対し、クラウゼヴィッツにあっては、戦争の本質を抽出する(=自立的な内的メカニズムを分析によって取り出す)ことも、主体が戦争を技術的に統制することを可能ならしめるため、つまり戦略計算に対して方程式を与えるためのものなのだ。
クラウゼヴィッツにあって、戦争はどこまでも対象のままであり続ける。言い換えるなら、ヘーゲルにあっては戦争が語るのに対し、クラウゼヴィッツは戦争について語っている。戦争の本質はクラウゼヴィッツにとって技術的な参照基準にすぎない。
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