HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

Once Upon A December



ドン・ブルース&ゲイリー・ゴールドマン監督による映画『アナスタシア』(Anastasia、1997)の音楽”Once Upon A December”を、ピアノで演奏している映像があり、思わず聴き惚れてしまった*1。哀しく、あまりにも美しいメロディに、そして素晴らしい演奏に、胸を打たれた。


Alberto Gestoso Tocando el Piano (Anastacia)


[Anastasia (1997 film)]

Anastasia: Music From The Motion Picture (1997 Version)

Anastasia: Music From The Motion Picture (1997 Version)





翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社文庫) 「哀しいメロディ」ですね。


(中略)



祖国へ再び戻ったプロコフィエフはともかく、アメリカに定住したラフマニノフの協奏曲もソヴィエトのピアニストはたびあるごとに採り上げている。
「メドヴェージェフは単なる音楽家ではなく、政治にも深く関与していたらしいのです。一時、ラスプーチンと共謀して政治的な画策をしていたという話もあります。歴史の表舞台に現れたことはありませんが」




麻耶雄嵩『翼ある闇―メルカトル鮎最後の事件』(講談社文庫) p.221-222


Royal Russia: The Private Albums of the Russian Imperial Family

そうです。重要だったのはA面の『死と乙女』ではなく、表を向いていた、B面に収められた『アメリカ』の方だったのです。




麻耶雄嵩『翼ある闇―メルカトル鮎最後の事件』 p.397

Anastasia's Albumアナスタシア皇女



アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(Анастаси́я Никола́евна Рома́нова, Anastasia Nikolaevna Romanova, 1901年6月18日 - 1918年7月16日?)は、ロシア帝国ロマノフ朝の皇族。ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第4皇女。家族と一緒にボリシェヴィキに殺された。2001年、アナスタシア皇女は家族や他のロシア革命時の殉教者とともにロシア正教会において列聖された。日本正教会での表記はアナスタシヤ。


4皇女の中で最も小柄だったが、明るく活発な性格として知られる。4皇女は仲が良く、OTMA(オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア)のサインを結束の象徴として使っていた。


ロシア語の他、家族間での会話は英語で行われていたため英語に堪能だったが、ドイツ語は苦手で家庭教師泣かせだったという。趣味は父親譲りの写真撮影で、彼女が撮った写真を集めた写真集も出版されている。




ウィキペディア より

Nicholas And Alexandra: The Last Tsar And Tsarina

Nicholas And Alexandra: The Last Tsar And Tsarina




ショパンでもヴィラ・ロボスでも、あるいは武満徹でもそうだが、「ワルツ形式」の音楽には、とても惹かれる。↓はヴィラ=ロボスの≪苦悩のワルツ/ Valsa da Dor≫。

Paulo Brasil - Villa-Lobos Valsa da Dor

[Paulo Brasil]


Villa

Villa

ブザンソン音楽祭における告別コンサート

ブザンソン音楽祭における告別コンサート



十二月になっても五月と同じに私を愛してくださる?
昔ながらに愛してくださる?
私の髪がすべて白くなったときも
口づけして言って下さる?
十二月になっても五月と同じに私を愛していると?




エラリイ・クイーン『顔/Face to Face』(尾坂力 訳、早川書房/ハヤカワ・ミステリ文庫) p.245-246


皇女アナスタシアの真実 (小学館文庫)

皇女アナスタシアの真実 (小学館文庫)

近代的自我の遠近法は、他者や事物をみずからの透視法に応じて配列し、その可視的側面だけをとりだすが、これはともすれば視点を固定させてその場所から見えるものだけを見ることによって対象を「知った」ことにするという独断的な価値判断を生む。その判断が、善なり悪なりのある一面性に支配されたものと規定されたとき、他者の偶像化またはスケープゴートが生まれるだろう。本来さまざまな面をもつ登場人物をある視点からの局面のみに限定すれば、ミステリの論理は確かに、たやすく探偵や観測者の特権的視点から形成される。
この「主観」的な観点は、それが個人的主観であるととらえられることによって、認識の「外」をもたざるをえない。うかがい知れない部分は漠然と意識され、ただ「ある」とだけ想定されうる。「私にとっての」という留保は、その認識が十分ではないという表明である。それによって、「外」を意識せざるを得ないとき、人はしばしば外部を意図的に切り捨て、またあるときには、外部との接触に戦慄する。新本格派は今まで、そうした人間の姿を描くことで発展してきたと言ってもよい。


これにたいして麻耶雄嵩は、外部を切り捨てる観点にはとどまらず、また、外部と接触することでただ恐怖する脆弱さにもとどまろうとはしない。認識を放棄するのではなく、逆に接触したすべての面を明示的にとらえようとこころみるあくなき意志が作品論理に透徹されている。




増田順子「変貌する神  麻耶雄嵩論」(青土社現代思想』1995年2月号vol.23-03 特集「メタ・ミステリー」)より


[関連エントリー]


Film Music of Takemitsu

Film Music of Takemitsu




アナスタシア―消えた皇女 (角川文庫)

アナスタシア―消えた皇女 (角川文庫)

痾 (講談社文庫) オセロゲームでは、すでに置かれている石とその外縁に隣接するマス目にしか着手できない。つまり8×8のマス目からなる盤面は、チェスや囲碁のように、ゲームのスタート時点から世界の全体として存在するわけではない。したがってオセロゲームにおいて、世界はすでに置かれている石と隣接すること、すなわち石と石の連続性に基づいて生成=拡張することになる。


しかし、ゲームのプレイヤーは、相手の石をはさんで殺さなければ、隣接するマス目に自分の石を置くことはできない。つまり黒石が白石を、白石が黒石をいったん切断して裏返す手続きを経なければ、新たな連続性は生じえない。
不連続─連続─不連続─連続─……、この繰り返しがゲームを進行させる。言い換えれば、オセロゲームでは、世界はふぞろいなパッチワークのように生成=拡張する。




法月綸太郎 (麻耶雄嵩 『痾』解説より p.406、講談社文庫)

*1:このアレンジの楽譜が欲しくなった