ソルボンヌ大学(パリ大学)で美学や哲学、(自然)科学(science)を学んだという──高等専門教育がモノを言うフランスでは異色の──作曲家パスカル・デュサパン(Pascal Dusapin、1955年生まれ)。
数々の賞を受賞し、多くの団体から委嘱を受けるなど*1、その活動は華々しく、その存在自体がセンセーショナルでさえある。俯いた、メランコリックな表情の彼のジャケットカヴァー/ポートレイトとは裏腹に、現代音楽のジャンルとしては最もCDのリリースが多い人気作曲家の一人だろう。
[Pascal Dusapin]
- http://mac-texier.ircam.fr/textes/c00000031/ [IRCAM - CENTRE GEORGES-POMPIDOU]
そのデュサパンの90年代に書かれたオーケストラ(+声楽)作品を聴いてみた。演奏は、エマニュエル・クリヴィヌ指揮&国立リヨン管弦楽団。
- アーティスト:デュサパン、パスカル(1955-)
- 発売日: 1998/03/25
- メディア: CD
曲目は、
- Extenso (1994)
- Apex (1995)
- La Melancholia (1991)
ヤニス・クセナキスやフランコ・ドナトーニに認められた若き作曲家*2であり、「微分音(四分音)」を多用する作風……から想像される「前衛音楽」(アヴァンギャルド)なるものとは、ちょっとイメージ違うかもしれない。ヴェルヴェットのような肌理、曲線を描くかのように微細に蠢く弦、息の長い管楽器の震え。そういった個々の響きが絶妙に干渉し合い、絶妙に一体となり、スルスルと流れていくように「音楽」が生じていき、響きが充満し、頂点(Apex)を築き、そして雲散霧消していく。何よりも、旋律や和声を楽しめる──それらを聴き取れる。
システマティックな操作性/恣意性よりも、自然な流動性、液状的な(リキッドな)「生成」の重視。そこに彼の審美眼、感性、美学、そして哲学が感じられる。
声楽付きの≪La Melancholia≫は、現代音楽特有(?)のソプラノの絶叫やテノールの(押し付けがましく独断的な)「主張」とも受け取れる要素・成分(element)もあるものの、しかしメゾ・ソプラノやカウンター・テナー、ソロ・ヴァイオリンなどが奏でるリリックな部分が存在し、全体として、やはり独特の「雰囲気」に惹かれるものがある。メランコリックで退嬰的な音楽世界かもしれないが──むろん、それは、「そのような現代音楽」を求め、「そのように聴いている」聴き手の態度(attitude)こそを意味しているものだ。
ちなみに≪La Melancholia≫採用されているテクストは、ホメロスの『イリアス』、プロティノスの『エネアデス』、チョーサーの『カンタベリー物語』、シェイクスピアの『ハムレット』、中世の断片詩、など。古代ギリシャ語、ラテン語、英語がちりばめられている。さすが、ソルボンヌ出身か。
CDの解説にはパスカル・デュサパンの音楽に対する発言が載っている。ざっと意訳してみよう。
私が管弦楽作品を聴くのは、そこに音響(sounds)と色彩(colours)があるからだ──聴こえる(hear)のは、サウンドとカラーだけだ。根底にある書法(エクリチュール、writing)のプログラムは忘れている……。構成(compositon、作曲)というプログラム、さらには「聞くという行為」すらからも、私は、遠ざかっている。
重要なのは、一者(one)と全体(whole)の関係、ソロ(solo)からマス(mass)への推移、高位(high)から低位(low)への流れ──私が聴くことができるのは、そのための形態(形相、forms)のみであり、そこにこそ特徴的な問題を孕んでいる。
音楽は音楽以上のものを何も表現・意味(represent)してはいない。
Pascal Dusapin
この発言が、彼の音楽に対する態度、彼の作風をすべて表現しているとは思わないが、理解の一端にはなるだろう。つまり対立を際立たせ、弁証法的に発展していく音楽を目指してはいない、と。
解説で Alain Surrans 氏は述べる。デュサパンは、音楽が持つ「神秘」を排除しない。「現象」(phenomenon)を生き生きとしたリアリティ(pure reality)を持つものとして、「読み取り」(read)、把握する。与えられた、所与の、マテリアルを、有効に使いきり(exploit)──そのマテリアルを利用し、ときに裏技を使い、(弱点でさえも)「突破」する──音楽という「プロジェクト」を企てる。
プロティノスの形而上学と自然学は厳密な「流出」体系を形作っている。それは上位の存在は時間の流れの中で下位の存在から展開する、という意味での「発展」ではない。
(中略)
完全無欠がいかにして減少するか、いかにして定められた階梯を徐々に下降し、最後に非存在の極限にまで下りて行くかということは理解できる。しかし逆の方法、下位のものから上位のものが存在することは理解できない。いかなる存在も自身が所有していないものを与えることはできない。要素をたんに量的にどれほど多く蓄積しようと、個々の要素に備わるものとは別の質、性質、価値を全体に与えることはできないからである。
このように自然解釈の原理として原子論的世界観はプロティノスの体系から初めから排除されている。世界を原子の集合として「解釈すること」は、『イーリアス』の詩の意味を文字の集積と解することと同様困難である。いずれの場合も、「形相」は「質料」にたいして絶対的に先存するもの、本性上先なるものである。
全体は部分に先立つゆえに、部分から導き出すことはできない。この一般理論をプロティノスはさらに生命と魂の起源の問題に適用する。ここでも同様に、形相は質料とはまったく異なる何ものかで成り立っているゆえに、質料から生じることはありえない。物体がたんに偶然的に合わさっても生命をもたらすことはできず、非精神的なものが精神を生みだすことはできない。精神はむしろ最初の立法者、より正確に言えば、存在そのものの法である。
デュサパン ペレラ (Dusapin: Perela uomo di fumo)
- 発売日: 2005/03/22
- メディア: CD
デュサパンは、自分が歌えない旋律やリズムを使用しない、聴き取れないコードを楽譜に記さない。それが「クリエイター」(creator、そして Creator)としての彼の真摯で誠実な態度(attitude)であり、他の「プロフェッショナル・コンポーザー」──例えばパリ高等音楽院/コンセルヴァトワール出身の。彼らは mysteries を合理的に、人間の知性でもって、解決するテクニシャンである──と異なる点であると、Surrans 氏は述べる。
そしてメランコリア──星の動きによって引き起こされる「病」。Surrans 氏は、パスカル・デュサパンの作品に「メランコリー」を見る。
そういえば、デュサパンと同じソルボンヌ出身のアメリカの批評家スーザン・ソンタグは、その「ヴァルター・ベンヤミン論」で、メランコリー/メランコリー気質について次のように書いていた。
つまり、メランコリー気質の人間には、内なる無感動を外界に不運の不易性として投射する傾向があり、それが「巨大な、ものの塊」として経験されるのだ、というふうに。
しかし彼(ベンヤミン)の説明はもっと大胆だ。メランコリー気質の人間と世界との深い交感は必ず(人間よりも)ものを対象にして生ずるのであり、この真正の交感こそが意味を開示する。メランコリー性格の人間は死につきまとわれるがゆえに、世界の読み方をもっともよく理解する。いな、むしろ、世界のほうがメランコリー気質の人間の視線のまえに、他のどんな場合にもまして、みずからを開示するのである。ものが生命を欠くほど、それを観想する精神は強靭になり、創意に富んでくるのだ。
デュサパンの作品を YouTube で探すと、『ピアノのためのエチュード6番』が見つかった。聴いてみると……そう、こんなふうに自然に「流れるような」雰囲気が彼の魅力なのだ。
ETUDE 6 by Pascal Dusapin
ハシーシュの助けをかりてもなお最も馴染みにくかった都市マルセイユについては、「ここの石は私の想像力のパンだ」と書いている。ベンヤミンの著作をみると、当然言及されていいはずの事柄が数多くおちている──誰もが読むものなど読もうとしなかったためである。彼はフロイトの心理学説よりも、四体液説のほうを好んだ。マルクスを読まずに共産主義者であることを、あるいは共産主義者になろうとすることを好んだ。ほとんどあらゆるものを読み、革命的な共産主義に十五年も共感をもちつづけながら、1930年代の末になるまでマルクスをのぞいたことがほとんどなかった人物。
彼はフリーランスの知識人は滅びつつある種族で、資本主義社会も革命的共産主義もそれを時代遅れにしてしまうと考えていた。
- アーティスト:Kaoli Isshiki
- 発売日: 2000/10/10
- メディア: CD
Dusapin: Concerto a Quia/Etude
- 発売日: 2004/03/01
- メディア: CD
*1:オペラ『ロメオとジュリエット』(Roméo & Juliette)はフランス革命200周年を記念して作曲された。もちろん初演は1989年。
*2:ウィキペディアによると、クセナキスは「私の弟子はデュサパンだけだ」と絶賛し、その発言が話題になったそうだ。