Twitter でお世話になっている Hadaly さんのアイコンが最近変わった。それは強烈な印象を与える「眼」の画像であった。しかも、それをどこかで見たような気が……既視感を覚えた……とても気になり、なんだか落ち着かなくなった。何の画像なのか訊ねようと思ったら、すぐさま、TL でその話題になった──知りたいと思った情報が、まるで僕の心の中が見透かされているかのように、自動的に流れてきた。
クロード・ニコラ・ルドゥー(Claude Nicolas Ledoux、1736 - 1806)の『ブサンソンの劇場瞥見』(Interior of the municipal theatre of Besançon、Inner view of the theatre)という銅版画であった。
一度チャンスをつかむと、後は Twitter のタイムライン(フロー)が、一時的に、その話題になる。情報が──自分の知らなかった知識が伝達されてくる。せっかくなのでそれらの情報をメモ(ストック)しておきたい。
- まず、このフランスの建築家ルドゥーに関しては、エミール・カウフマンの『三人の革命的建築家 ブレ、ルドゥー、ルクー』(Three revolutionary architects)という本が中央公論美術出版から出ていること(後で図書館で探してみたい)。
- 高山宏『目の中の劇場』(アリス狩り2)にも、そのタイトルから一目瞭然のように、ルドゥーについて書かれている。
- その高山宏が『現代思想』のミシェル・フーコー特集「フーコーの18世紀 表象の臨界のサブライム」(1988年11月号 vol16-13、青土社)で紹介している、ジョン・ベンダー『懲治監獄を夢みる──18世紀英国におけるフィクションと精神の建築』*1のカヴァーが、まさにルドゥーの『ブザンソン劇場の内側を映す眼』だったこと。高山氏によれば、ベンダーの著書は、
タイトルから一目瞭然のようにフーコーの『監獄の誕生』を直接の霊感源としながら、パノプティカルな牢獄の構造と等しく「全知」の視点を持ち、表象に「古典主義的エピステーメー」の指標たる「透明」性神話を抱えこんでいく18世紀の小説テキストを、パノプティカル・ジャンルとして分析していく類をみない斬新な表象論はまちがいなく『言葉と物』の延長線上にもある。フーコーに欠落した「古典主義時代」のロマネスクな表象をめぐる論を、この大著がみごとに補っている、とそういうふうに見るべきである。たまたま本誌上で現在ベンサム論を連載中の土屋恵一郎氏など*2、泣いて喜びそうなプレゼントであろう。
一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。
(……)
見られてはいても、こちらには見えないのであり、ある情報の客体であっても、ある情報伝達をおこなう主体にはけっしてなれないのだ。
ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』(田村俶 訳、新潮社)p.202-203
さらに、クロード・ニコラ・ルドゥーの『ブザンソン劇場の内側を映す眼』は、
- ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク/Hans-Jürgen Syberberg の『ヒトラー、ドイツからの映画』(Hitler - ein Film aus Deutschland *3)でも効果的に使用されているとのこと。
[Hans-Jürgen Syberberg]
http://www.amazon.de/dp/3937045775/
ジーバーベルク?……そうだ! スーザン・ソンタグが彼について書いていた。
ソンタグはハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの映画を極限的な見事さによって人を圧倒させる一方、当惑させるとも指摘する。ジーバーベルクの「引用」はきわめて博学で、貪欲で、意識的な芸術家の指標となる。そのスタイルは高級芸術とキッチュを混合する──その折衷趣味はシュールレアリストのそれである。「シュールレアリストとは遅れてきたロマン主義的趣味であり、ロマン主義の死後の分裂した世界におけるロマン主義である。それはパスティーシュに傾斜する。
シュールレアリストの作品は哀愁と反語の精神にささえられた解体と再構築をその特徴的な手法とするが、カタログ作り(終りのないリスト作り)、ミニチュア複製化の手法、引用の過剰使用などもそのうちに含まれる。彼の映画もこうした手法を、とりわけ視覚的な引用を全体にくり返しゆきわたらせることによって、多くの場所と時代とに棲みついてしまう。彼が基本におくのは劇的でしかも視覚的な反語の技法である。
最大に皮肉は、これだけ複雑なものを作っておきながら、ヒトラーをめぐる考察を単純なものとして、つまり子供にむかってするお話として提示した点にある。セルロイドの飾りを頭にのせたジーバーベルクの九つの娘が、夢遊病者的な無言の証人として、瘴気のただよう地獄の風景の中を歩き回る。四つの部分の始めと終りにはこの少女が登場する。不思議の国のアリス、映画の中の霊──そのつもりに違いない。しかも彼はこの少女をデューラーの『メランコリア』と結びつけて、メランコリーの象徴とする。映画の最後では彼女はまるくふくらんだ涙の中に入って、星をみつめている。この着想をどこから借りてきたとしても、シュールレアリスト的趣味のきわめて濃いイメージである。夢遊状態もかれらの物語でよく使われる手法だ。
シュールレアリスム的な風景の中を動きまわる人間は、あきらかに夢みるような静止状態の中を歩くことになる。人をしてそうした風景の中を歩かせようとする試みは、必ず無謀で、偏執狂的なものになる。つまるところ、自愛的になる。
この映画にあらわれる寓意的なイメージ、ルドゥーの「ブザンソン劇場の内側を映す眼」(1804)はシュールレアリストたちの愛好したものだ*4。この眼はまず二次元の絵として、セットにおかれる。のちにそれは三次元の劇場としての眼になり、語り手の一人(ベール)はそこに映し出された自分の姿を──ジーバーベルクの前作『童貞王ルードヴィヒによせるレクイエム(ルトヴィッヒ2世のためのレクイエム)』*5において主役を演じている自分の姿を──見ることになる。
ルドゥーは眼の中に劇場をおいたのに対して、彼はみずからの映画を心の中におく。そこではすべての連想が可能になる。
スーザン・ソンタグ「ジーバーベルクのヒトラー Syberberg's HITLER」(富山太佳夫 訳、『土星の徴の下に』所収、晶文社&みすず書房)*6
Susan Sontag on Hitler
象徴主義の芸術家とは、なによりもまず、ひとつの精神である。この創造的精神は、すべてを見、主題に浸透し、その光耀を奪いとる。ジーバーベルクのヒトラー論にはそういう精神についてまわる居丈高な姿勢と、手をひろげすぎた象徴主義的心性に特有のきめの粗さがみられる。「私は思うんですが……」と始まる柔らかい調子の議論と、動詞を欠くために、説明するというよりは喚起する文章の交錯。いたるところに結論がありながら、何ひとつとして結論がでない。
象徴主義的な物語ではすべての部分が同時性をもっている。つまり、この威圧的な突出した精神の中では、すべてが同時に併存するのである。(……)
ジーバーベルクは(ときどき)普通とは違う知を要請しているが、そのことはこの映画の中心的な寓意のひとつである眼の──フリーメイソンを連想させる眼(理知ある眼、秘密の知識をみぬく知)のかたちをしたルドゥーの理想の劇場によって示されている。
われわれの居場所は、円形劇場の階段座席でも舞台の上でもなく、一望監視の仕掛けの中であり、しかもわれわれがその歯車の一つであるがゆえに、われわれ自身が導くその仕掛けの権力効果によって、われわれは包囲されたままである。
ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』 p.217
[関連エントリー]
*1:"Imagining the Penitentiary: Fiction and the Architecture of Mind in Eighteenth-Century England" by John Bender Imagining the Penitentiary: Fiction and the Architecture of Mind in Eighteenth-Century England
*2:多分『ベンサムという男―法と欲望のかたち』のことだと思う。 独身者の思想史―イギリスを読む (Image Collection精神史発掘)
*3:http://www.imdb.com/title/tt0076147/
*4:アンドレ・ブルトンの『魔術的芸術』にもこの作品が掲載されている。p.133
*5:Ludwig - Requiem für einen jungfräulichen König
*6: