HODGE'S PARROT

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幻想序曲<マスターベーション>




チャイコフスキーの幻想序曲『ロメオとジュリエット』を聴く。リッカルド・ムーティ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏で。

もちろん、そう勿論、このCDを買ったのはスクリャービン交響曲第3番『神聖な詩』──第一楽章「闘争」(Struggles)、第二楽章「官能の喜び」(Pleasures)、第三楽章「神聖な戯れ」(Divine Play)から成る──が目当てだった。当時は、もちろん今でもそうだが、『神聖な詩』は、同じ作曲家の『法悦の詩』(ポエム・オブ・エクスタシー)に比べ、あまり録音がなかった──といっても『法悦の詩』も録音が多いとは言えないが。それに比べ『ロメジュリ』は……自然と耳に入ってくる、受動的に──しかしそのせいか、きちんとしっかりと聴いたことは、あまりない。
久しぶりに、きちんと、聴いた。あるマンガにそって、シェイクスピアの筋書を参照しながら。


そして、この妄想に塗れたストーリーを持つ──「おお、ロミオよ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの……名前の中に何があるというの」「モンタギューとは何なのでしょう」「おお、何か別の名前になってください」──音楽を聴きながら、ニコラス・ロイルの『ジャック・デリダ』を紐解く。

相変わらず代補が問題であり、「代補的自然=本性」と呼びうるものが問題なのだ。発話は自然なものであり、エクリチュールは自然を代補する。セックスは自然なものであり、マスターベーションは自然を代補する。しかし、自然というものはつねにすでに代補されてしまっているだろう。このことは代補の自然=本性である/代補の性質を帯びている。
現代の批評家で理論家のレオ・ベルサーニがこう問うように「あなたがマスターベーションするとき、あなたは誰なのか」。答えは、ベルサーニが「幻想」と呼ぶもののうちに、あるいは、デリダが「想像的なもの」と呼ぶもののうちにある。後者はこう述べている。

ルソーは、オナニズムに耽ることも、そのことで自分自身を責めることも、どちらも決してやめはしないだろう。このオナニズムというのは自分自身に現前をもたらし、不在の美しい者たちを召喚することによって、自分自身を苦しめる〔変容させる、ふりをする affect oneself〕ものなのである。彼の目には、それ〔オナニズム〕は、悪徳と倒錯のモデルと映り続けるだろう。もう一つの現前=現在によって自分自身を苦しめることで、自分自身を堕落させる〔変容=他者化させる〕のである。ルソーはこの堕落=他者化を、自己というものにたまたま起こったのではない何かとか、自己の起源そのものであると考えたいと決して思いもしないし、また、考えることもできない。


オナニズム、マスターベーション、あるいは私たちの父祖(母祖ではないとしても)が自涜と呼ぶのを好んだものは、幻想とか想像的なものの領域に属していると言えるだろう。しかし、このことは、いわゆる現実世界と関わり合っていないということではない。むしろ反対に、「自己」とか「世界」ということの意味そのものがここで問題になるのだ。


マスターベーションとは奇妙なものだ。それは、ルソーが「危険な代補」や「致命的な強味」と何度も呼んでいるものである。現代の批評家にして理論家であるバーバラ・ジョンソンが注釈して言ったように、マスターベーションとは「理想的な合一の象徴的なかたちである、というのも、そこでは主体と客体は本当にひとつなのだから。そして、それと同時に、それは他者との一切の接触からのラディカルな疎外でもあるのだ」。


「自分自身を苦しめる〔affecting oneself〕とは、デリダが他のところで自己触発〔auto-affecting〕として語ったものである。「自己触発」は、別々のコンテクストでそれぞれ「自己現前」と「ナルシシズム」として知られているものを一緒にさせてしまう。自己触発の最も純粋なかたちは「自分自身が話すのを聞く」というものだ。


(中略)


自分自身が話すのを聞く──それは言ってみれば、たとい沈黙を守っているときでさえ、自分自身の頭の内側で自分自身に聞き入ることであり、耳を、言うなれば、自分自身が考えるのを聞くことができるように締め出しておくことである──自分自身が話すのを聞く、この世界の中でこれほど自然なこともほかにはない。もしそれが「この世界の中でこれほど自然なこともほかにない」のだとして、また同時に、私たちは知っている、あるいは、知っていると思っている、自分自身が話すのを聞くことは、「本当は」この世界の中のものではまったくないということを。それ〔「自分が話すことを聞くこと」〕は、何にせよ、「「固有性=本来性」の領域の外部を通過する」必要性に一切煩わされることがないのだと私たちは考えたいし、感じたいのだ。


しかし、また、自分の声をテープに録音して聞いたことがある者なら誰でも「知っている」ように、ものごとはそう単純でも甘いものでもない。私には、「本当に」自分が話すのを聞くことは身の毛もよだつような経験であると感じるのが、私一人だけのことであるなどとは到底信じられない。




ニコラス・ロイル『ジャック・デリダ (シリーズ 現代思想ガイドブック)』(田崎英明 訳、青土社) p.106-108

『快感原則の彼岸』についてデリダは、いかなる哲学的あるいは科学的モデルにも照応しない、そのテクスト的な運動について語っている。彼は「『領野』は開かれるが、そこではそのテクストへの主体への記載が……またテクストの適切さと行為性の条件でもある」と書いている。『快感原則の彼岸』で起きていること、それは掻き立てられた反復強迫という形式の物語的な進行への侵入とでも呼びうるだろう。この反復は反物語的な生産の様式という特徴をおびている。この反復は、快感原則の彼岸の何ものかについての理由づけを深化させる代わりに、叙述されるべき現象にとって、そうした議論を構成する語彙自体(とくに快感-不快、生-死の二元論)がいかに不適切であるかを際立たせている。




レオ・ベルサーニフロイト的身体―精神分析と美学』(長原豊 訳、青土社) p.106