HODGE'S PARROT

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消し難きもの あの/このエクリチュール




……そういうわけで、カラヤン指揮&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による、カール・ニールセン交響曲第4番<不滅>*1を聴いた。あるマンガ本の最新刊でも、この曲に印象的に言及している場面があって、しかもマンガなので視覚的なイメージも、その文脈にそって記憶/記録/アーカイブされる。

Symphony 4

Symphony 4 " Inextinguishable "


そういえばニールセンという作曲家について初めて知ったのは、このカラヤンのレコーディングによって、だった。あのカラヤンベルリンフィルを率いて、あの天下の黄色いレーベルに録音した「未知の」作曲家の作品。ティンパニが豪快に鳴らされる劇的な、それゆえ洗練さとは無縁の作品。
カラヤンらしからぬ選曲……と言えば、この頃のカラヤンは、そういえば、ショスタコーヴィチ交響曲第10番やサン=サーンス交響曲第3番<オルガン付き>といった、「らしくない」楽曲を録音することをあえて実践していた、ように僕には思える。デジタル録音初期の頃だ。この頃のカラヤンは、メディアの変化に伴って、ベートーヴェンブラームスチャイコフスキーといった「らしい」の再-録音と「らしくない」の新-録音(ショスタコホルストの<惑星>と同じように、まったく初めてではないかもしれないが、しかし「らしくない」イメージを持ってしまう)の二重の戦略を遂行していたのかもしれない。ともあれ、あの帝王カラヤンがこれらの楽曲を録音したことは、稀有で貴重な出来事に違いない。このCDを聴きながら──「本当に」音楽を聴くことができたのか?──そう思った。


そしてこれらのCDを聴きながら──カラヤンのイメージをあれこれ勝手に思い浮べながら、デリダの『有限責任会社』の頁を捲った。

そういうわけで、「反論」の議論をできるだけ詳しくたどってみよう。相変わらず「このセクションにおける最も重要な論点」に専心しつつ、Sarl は Sec に対して、本当はそのなかに何頁にもわたって読むことができたものを対立させようと欲する。すなわち、「志向性は、書かれたコミュニケーションにおいても話されたコミュニケーションにおいても、まったく同じ役割を果たすのだ」という主張である。そして Sarl は続ける。「二つのケースにおいて異なるのは、話しての意図=志向ではなく、コミュニケーションの成功における発言のコンテクストの役割である」


ここでは、二つの点を指摘しておこう。1 コンテクストの役割が決定的であり、「全体的コンテクスト」(オースティン)の地平が分析にとって不可欠である以上、ここではコンテクストの差異は根本的でありうるし、たとえ暫定的にではあっても、それを棚上げしたままで意図=志向を分析することは不可能である。差異はただコンテクストのみに関わっている、ということは、言語行為論の観点から見ても驚くべき命題ではないだろうか?
2 意図=志向はそれ自身コンテクストによって刻印(マーク)されており、「全体的」コンテクストの形成によっても無関係なものではない。オースティンにとっては、それは全体的コンテクストの本質的一要素でさえある。ところが Sarl は、コンテクストについての考察を一時的に排除することを自らに許して疑わない。そのような排除は、たとえ一時的かつ方法論的であり、論述の明晰さを確保するために有益なものであったとしても、不可能かつ不当なものだと私には思える。コンテクストを、分析の精緻化のために捨象してもよいものとして扱うことは、自らが取り出すと主張する内容そのものと対象とを逸した記述に入り込むことである。というのもコンテクストはそれらを内在的に規定しているのだから。方法そのものと修辞的明晰さとの要求自体が、そのような捨象を避ける方向に導いていくはずだろう。コンテクストは、つねにすでにその場の内部にあるのであって、たんにその周囲にあるのではないのだ。


ともあれ Sarl の言うことを聴いてみよう。最初の段階において、 Sarl はコンテクストの問題を棚上げにしようとする。




ジャック・デリダ有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス)』(高橋哲哉 他訳、法政大学出版局) p.130-131

実際、この最初の錯覚は、測り知れないほど「潜在的」であるにちがいない。Sec のなかをいくら探しても、私にはそのほんのわずかの徴さえ見出すことができない。 Sarl にしても同じだろうし、だからこそその読解は、何一つ証拠を挙げることもできずに潜在的なものに訴え、結局のところ、今度はまさに「発言の背後に」見出されるであろう何ものかに訴えているのだ。こうして Sec のテクストの背後に暴かれた錯覚、すなわち、デリダなる人物が信じているとされる「発言の背後にある或るもの、可視的な記号を賦活している或る内的な表象」〔something behind the utterances, some inner pinctures animating the visible sings〕の錯覚は、(機械論的、連合主義的、実体主義的、表現主義的、再現=表象主義的、前-ソシュール的、前-現象学的、等々といった)言語の心理学の、もっと正確に言えば、Sec がどんな倒錯的ないしはバロック的な退行のゆえにそこに汲むことができるのか、首を傾げたくなるような前-批判的心理主義の貯蔵庫に属しており、そこから、告発の恐るべき仮借なさが出てくる。


そういった心理学ないしは心理主義が教えられなくなってから、もうかれこれ一世紀にもなろうとしているし、 Sec の「背後に」ある諸々の作業は、一読して分るように、そうしたものへの批判を前提し強化しているのである。




有限責任会社』 p.142-143

*1:ウィキペディアによると、英語で「The Inextinguishable」、デンマーク語で「Det Uudslukkelige」