HODGE'S PARROT

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”Re-performance” 再創造されるグールドの『ゴールドベルク変奏曲』1955年盤



グールドは不可能ななにかを探求していた。それを彼は<ゴールドベルク変奏曲>に即して音楽の「非実体化」と呼んでいる。




ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』(千葉文夫 訳、筑摩書房) p.145


1955年6月、ニューヨークのCBSスタジオで録音されたグレン・グールドGlenn Gould、1932-1982)のデビューアルバム『ゴルトベルク変奏曲/Goldberg Variations』。
ピアノ音楽を愛する人なら、多分、この「録音」は──それがCDであれLPレコードであれカセットテープであれ、そういったメディアに関わらず──持っているだろう。


このJ.S.バッハの傑作の、その第一のディスク(録音)に挙げられる「55年のゴールドベルク」が、ゼンフ・スタジオ(Zenph Studio)の「Re-performance」テクノロジーによって「再創造」され、3月にソニー・クラシカル(Sony BMG Masterworks)よりリリースされるという。録音は2006年9月25日──グールドの生誕74年目の日──に行われた。まさに新生グレン・グールドの誕生である。

アメリカで開発されたコンピュータ・ソフト「ZENPH(ゼンフ)」は、オーディオデータを読み込み、それがピアノであればキータッチや音量、ペダルの踏み込み加減まで、完全にデータ化出来るというソフトです。このソフトがあれば、古い時代のSPやLPの音源をデータ化し、MIDI対応のグランドピアノなどで再生することが出来るわけです。往年の巨匠達の演奏が、リマスタリングやリエディットではなく、“最新の録音”で楽しめるのです。

再生フォーマットは以下の4種類。

  • ステレオ・ヴァージョン
  • バイノーラル・ステレオ・ヴァージョン(演奏中のピアニストの頭の位置にダミーヘッドマイクを設置。ピアニストが耳にしているであろう音響をとらえる)
  • SACD ステレオ・ヴァージョン
  • SACD サラウンド(5.1ch)・ヴァージョン

大事件である。TransNews さんよりこのニュースを教えてもらい、興奮しながら、その詳細を確かめるべく、Zenph Studios のウェブサイトを訪れてみた。

[Zenph Studios]


「What is a Re-performance?」を参照すると……

  1. このテクノロジーは、まず、録音された「オリジナル・パフォーマンス」の音楽的なニュアンス──ペダル・アクション、音量、アーティキュレーションを含む全てを、”extract”(抽出、引用)し、ミリセカンドのレベル/タイミングでデータファイル化、「re-performance files」として保存する。
  2. 次に作成された「リ・パフォーマンス・ファイル」を MIDIファイルに(再)変換する(represented in a computer as MIDI files)。
  3. この高感度・高解像度のMIDIhigh-resolution MIDI)を使用して、コンピュータ制御されたアコースティック・ピアノ(YAMAHAnine-foot Disklavier Pro”)が弾かれる──ソフトウェア(ファイル)がハードウェア(ピアノ)を制御する。

……こうして音楽が再現/(再)演奏される。


重要なのは、過去のモノラル録音や貧弱な録音技術で残された「レコード」が、現時点の録音技術で「新録音」されること。言ってみれば、例えばグレン・グールドというピアニスト(人間)が解体=脱コード化され、「データ化/ソフトウェア化」され、そしてソフトウェアとしてのグールドが、演奏機械として、今・ここでピアノを弾く、ということだ*1

論より証拠。Zenph Studiosのウェブでは、アルフレッド・コルトーの二つの演奏を聴き比べることができる。すなわち「1926年録音のコルトーショパン」と、Re-performanceテクノロジーによって2005年に再創造された「2005年録音のコルトーショパン」である。


「オリジナル」は、ノイズの向こうから聞こえるピアノの音が、いかにも1926年に録音されたもの、という雰囲気/アウラを醸し出している。一方「再創造」の方は、これってコルトー?と思うくらい、鮮明でリアルで生々しいピアノの音がする。

まさしくこれは「エジソン以来の」技術革新なのではないか。このテクノロジーがあれば、ラフマニノフギーゼキング、ランドフスカ、ホロヴィッツ……らの演奏を最新録音で聴くことができる──まるで彼らが現在のスタジオを訪れてレコーディングするようなもの。これは本当に事件だ!


でもグールドの場合、あの「声」はどうなっちゃうんだろう。声も一緒に再創造されるのか? あの声──「個性」と言ってもよい──もデータ化してくれるのか? とにかく早く聴いてみたい。
↓はバッハのパルティータを弾く/歌う……というよりピアノと触発し、情動を感じているかのようなグールドの映像。

音楽? 信じがたいほどの緊張をはらむ弦、皮の伸縮、金属の筒に閉じ込められた空気の柱、息が震わせるリード。一定の周波数にしたがって少しばかりの空気をただ移動させるためのこのような物質の数学的振動のすべて。そしてすでに存在しないものといまだ存在しないものを聴収可能なものに変えるあのわずかなもの、空間それ自身が微細な揺らぎを生じる原因となるものである。


グールドのバッハへの愛はことのほかよく理解できる。この愛は鍵盤を超越し、あらゆる楽器による表出の彼方に生きつづける。音楽は楽器を否定しなければならない。ちょうど神がそれにつかえる者たちに無関心であるように、音楽は楽器に無関心であらねばならない。音はプレクトラムで擦り、ハンマーで叩き、管をひらいて内部に息を通すことで生じるが、音楽は別のどこかにある。




グレン・グールド 孤独のアリア』 p.145-146




[バイノーラル/Binaural について]

もっとも基本的なケースでは、HATS(ヘッド・アンド・トルソー・シミュレータ)と呼ばれる、人間の上半身(少なくとも頭部のみならず肩口までを含む)人形の耳道入口部に小型マイクロフォンを備えた装置で集音し録音する。HATSが聴取者の特性とある程度合致していれば、これを左右1組のイヤーフォンで再生(バイノーラル再生)することで、現場に居合わせたかのような音の臨場感を得ることが出来る。

バイノーラル録音-再生により臨場感が得られるのは、人体各部で音波が回折や反射をすることにより干渉が生じ、単に左右の耳と音源間の距離からくる音量差と時間差のみに留まらず、周波数特性にも特徴的な影響を与えるからである。

When played through headphones, binaural recordings can reproduce the auditory sensation of being present at the recording location much better than conventional recordings either through headphones or loudspeakers. Conventional stereo recordings do not factor in natural crossfeed or sonic shaping of the head and ear, since these things happen naturally as a person listens, generating his own ITDs (interaural time differences) and ILDs (interaural level differences).

In acoustics, dummy head recording (also known as artificial head or Kunstkopf) is a method used to make binaural recordings, that allow a listener wearing headphones to perceive the directionality and the room acoustics of single or multiple sources.


そういえばピエール・ブーレーズの『レポン』『二重の影の対話』には、通常のステレオ装置で聴く/再生するためのCDとは別に、ヘッドフォンで聴くための「Special Headphones Version」があった。多分これがバイノーラル録音のメソッド/テクノロジーを取り入れたものだろう。

Boulez: Repons, Dialogue de l'ombre double

Boulez: Repons, Dialogue de l'ombre double

  • 発売日: 1999/04/13
  • メディア: CD

私はすべてのデータをつけてスコアを書き記しました。音高、音量、持続(長さ)、倍音スペクトル、位相シフトですが、それらすべてが実際私によって、私ひとりで、またアンドリュー・ジェルゾーと一緒に行った実験やテストにしたがって、あらかじめ決定されています。アンドリュー・シェルゾーはその後それらのデータをコンピュータ言語に変換したのです。


時としてそれはとても奇妙ですよ。つまり、結構単純な原素材を与えても、結果はとても複雑になって、他の音楽家や協力者たちは、彼らがスコアを読み、そしてそれを音響的な結果と比べたりする際に大きな困難を覚えるほどなのです。なぜなら、機械的なプロセスはオリジナルのデータをまったく聴き慣れぬものにするので、スコアと音響を関係づけることがしばしば相当困難になるからです。まったく平均律化されていない世界にいることになるのです。


たしかに音高のための最初のデータとしては、まず平均律による音が与えられているのですが、位相シフトによって、平均律から飛び出してしまうことになってしまいます。




『レポン』をめぐって ヨーゼフ・ホイスラーによるピエール・ブーレーズ・インタビュー(笠羽映子 訳、『ユリイカ』1995年6月号)


ブーレーズで思い出したが、IRCAM(現代音楽・音響研究所)所長のベルナール・スティグレールジャック・デリダとの対談・共著『テレビのエコーグラフィー』で、アナログ/デジタルに関して、以下のようなことを記していた*2。主に写真や映像(テレビ、映画)を念頭においたアナログ/デジタルについての議論であるが、音楽においても示唆的だと思う。

デジタルの夜の中で、触覚がかすみ、連鎖は複雑になる。光学の場合にあった連鎖がすっかり消えてしまうのではない。デジタルでも、やはりまだ写真なのである。だが、なにかが介入する。たとえばバイナリー計算の処理、これが伝達を不確実にする。デジタル化は、連鎖を断ち切りスペクトラムへの直の操作を導入する。
同時に、亡霊(ファントーム)とファンタスム(幻想)の区別を曖昧にする。光子は0と1に還元されたピクセルそのものとなり、それについての密やかで離散的な計算が行われる。アナログのときは本質的に疑いの余地のないもの(偶有的属性である操作性がどのようであっても)であったのが、デジタルとなるとこれ-が-あった本質的に疑わしいものとなる(偶有性となるのは非-操作のほうである)。




ベルナール・スティグレール「解離的イマージュ」(『テレビのエコーグラフィー デリダ〈哲学〉を語る』より、 原宏之 訳、NTT出版) p.245

機械はショットを「見て」、自動的に、機械的に、探知する。なぜならば、機械はなにも信じないしなにも知らないからであり、機械はいかなる欠陥も恐れず、いかなる亡霊にも憑かれていないからである




「解離的イマージュ」 p.250

*1:かくして「グールド産業」が真にスタートするだろう

*2:ちなみにこのデリダとの対談、スティグレールが音楽や楽器を例に出して、ときに「デリダの論旨に異を唱えるかのごとき」論調がなかなかスリリングだった。デリダって、もしかしてあまり音楽に詳しくないのかもしれない。それともデリダの思想がそのままでは音楽と相性が悪いのか。