HODGE'S PARROT

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フィルムノワールの逃走論

HODGE2006-05-21




『ミステリマガジン』(1992年5月号)に大沢在昌北上次郎の対談が載っている。「フィルム・ノワールの魅力を探る  ジャック・ベッケルの世界」と題された「フランスの犯罪映画」フィルム・ノワールに関するものだ。

対談の最後に、シネ・ヴィヴァン六本木で上映される「ジャック・ベッケル特集」の予告というか広告が載っているので、それに合わせたものだろう。淀川長治の「全編がクライマックスだ。ベッケルのこの映画精神に呼吸を止めたまえ! 涙を溢せたまえ!」という煽りも熱いベッケルの代表作の『穴』、『赤い手のグッピー』、『エドワールとキャロリーヌ』が、このとき上映された。

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大沢在昌氏と北上次郎氏の対談は『ミステリマガジン』誌上で行われたものなので、原作のジョセ・ジョバンニ(及び翻訳者の岡村孝一)の話題が中心になるのは、当然と言えば当然。二人はその中で興味深い指摘をしている。

北上  『穴』というのは、象徴的な作品なんですね。別にジョヴァンニでなくても、もともと脱獄物というのは、小説でも映画でも緊迫感あふれるドラマでしょう。それは脱獄というテーマ自体が非常に象徴的だからだと思うんです。つまり家や会社から逃げるのではなくて、国家の法に閉じ込められた人間がそこから出ていく話だから、基本的には自由を求めるという、そういう象徴性がついてしまうんですね。


大沢  アウトサイダーなんですよね。


北上  規範が違うから、国の規範で線を引かれちゃえば、当然その連中は刑務所に入らざるを得なくなってしまう。でも、そいつらは国の規範によって生きていないわけだから、そこから出てくるのも当たり前になる。
ジョヴァンニの小説で有名なセリフがあるでしょう。作品に出てくる男たちについて警察署長が、「あいつらは命の次に自由を大事にしやがる」って怒る有名なセリフ。普通は、命の次に大切なものって、財産とか家族とかいっぱいあるじゃないですか。そうじゃないんですね。ときには家族を捨てちゃうこともある。命の次は自由だと。




フィルム・ノワールの魅力を探る  ジャック・ベッケルの世界」

そしてフランスのアウトローアウトサイダーの「裏切り」とイギリスのそれとの違い、アメリカの「ヒーローもの」との違い、日本のヤクザ映画との違いなどが論じられ、北上氏は次のように述べる。

ロランとマニュたちというのは、国が法という名で引く線の向こう側にいるわけですよね。それが全然悪いと思っていない。悪いと思ってないから、捕まったら脱走するのは当たり前だし、そうやって自由を求めているんだと思うんです。だが、あの裏切った男に”かわいそうに”と言うのは、あいつも最初は自分たちの仲間だった。ところが。署長に呼ばれることによって線の向こう側に行ってしまった。つまり、そっちを選ぶのか、という言葉が出てきたと思うんですよね。だから、非常に象徴的だなという感じがする。




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ところで、このジョバンニ/ベッケルの逃走と裏切り。これを浅田彰の「真にゲイ・ピープルをめざす諸君」へと向けて書かれた、「逃走論」と結びつけるのは牽強付会だろうか。

男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女たちや子どもたちも、ヘタなひきとめ工作なんかしている暇があったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでもだ。


(中略)


さて、ゲイだ、ゲイだとは言うものの、逃走は逃走だから、アッケラカンと明るいワケじゃない。国境の町の薄汚れた安酒場の便所の匂いなんかがしみついてたりするワケね。だけど、それがまたいいんだなァ。そういうところでくたびれたコートなんか着て周囲に眼を光らせてる逃亡者くらいサマになるものはないっていうのは、映画の紋切型で御承知のとおり。それに、いつも受け身でビクビクしているワケじゃない。逃走を続けながら機敏に遊撃をくりかえす。これこそゲリラ戦の基本じゃなかったろうか。




浅田彰「逃走する文明」(ちくま文庫『逃走論』より)p.10-14


あるいは、ドゥルーズ=ガタリクラウゼヴィッツに触れた部分。

まず第一に指摘したいのは、「理念」としての絶対的戦争と現実の戦争というこの区別は非常に重要であると思われるが、クラウゼヴィッツとは異なる基準からこの区別を考えることが可能であるということだ。

すなわち、純粋「理念」はクラウゼヴィッツが言うように敵の抽象的撃滅という理念ではなく、まさしく戦争を目標にしないで、戦争と潜勢的あるいは代補的な総合的関係を持っている戦争機械の理念であると考えられる。したがって遊牧的戦争機械は、クラウゼヴィッツのいうように現実の戦争の単なる一事例であるとはわれわれは考えない。そうではなく、それは「理念」に十全に適合する内容であり、「理念」とその固有の目標つまりノモスの空間と構成の発明である。


(中略)


そうすると、問題は、戦争機械がいかに戦争を現実化するかということよりも、国家装置がいかに戦争機械を所有するかということである。国家装置は、同時に、戦争機械を所有し、それを「政治的」目的に従属させ、戦争機械に直接の目標として戦争を与えるのである。
そして、戦争機械をカースト化するさまざまな形態から本来の意味での所有化の形態への移行、限定戦争からいわゆる総力戦への移行、そして目的と目標の関係の変容、以上の三重の観点から国家を進化させるのも、同じ一つの歴史的傾向なのである。




ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ千のプラトー』(河出書房新社)p.475


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