HODGE'S PARROT

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知のペテンからの逃走論



↑のエントリーで、ドゥルーズ=ガタリを引いたまさに舌の根も乾かぬうちに(笑)

temjinusさんが、ここのところ、「詐欺師」フロイトの問題やアラン・ソーカル&ジャン・ブリックモンの投げかけた問題について検討している。いろいろと参考になる。


とくに、Jacques Van Rillaer, Didier Pleux, Jean Cottraux, Mikkel Borch-Jacobsen, Catherine Meyerらによる『精神分析黒書』(”Le livre noir de la psychanalyse : Vivre, penser et aller mieux sans Freud”、ISBN:2912485886)は、精神分析の暗黒面(ノワール)が描かれているそうなので、関心を惹く。ぜひ邦訳されて欲しいものだ。


さらに、temjinusさんのところから、堀茂樹氏の『知の欺瞞』関係の文章へ。とくにソーカルの「動機」に注目したい。

彼(=ソーカル)はむしろ、米国の左翼がポストモダン相対主義に誘惑されるあまり、自らの思想的起源であるはずの「啓蒙」の精神を裏切っていると考え、そのことに苛立ったからこそ、警鐘を鳴らすべく、意図的に「事件」を起こしたのだ。

ソーカルが「ソーシャル・テクスト」にパロディー論文を投稿した動機は、彼の左翼としての危機感によるものだと、本人は語っています。アメリカの左翼がポストモダン思想にかぶれ、認識的相対主義を採用してしまうことによって、象牙の塔にこもり、現実に対する真の批判力を失ってしまうことを、ソーカルはつよく恐れたのだといいます。


また、ジャック・ブーヴレスの『アナロジーの罠 フランス現代思想批判』の要約も以下のサイトに載っている。

社会システムや政治システム(意味のシステム)において真理の証明が不可能であるのは自明であるが、それをゲーデル不完全性定理(形式のシステム)で証明することにどのような意味があるのか。そして意味のシステムを形式のシステムと同一視できる根拠はどこにあるのかを示さない限り、この二つのシステムを同一カテゴリーで論じることはできないだろう。

僕も書棚を覗いたら、ブーヴレスの本があったので、その第一章をざっと目を通した。こんなことが書いてあった。

実際、恒久的な異議申立てというレトリックによって、「無政府主義構造主義」のようなイデオロギーと、もっとも権威主義的な右翼思想のもつ、反合理主義的、反進歩主義的、懐疑的、厭世主義的、シニカルといった傾向との間にひそかに存在する緊密な類縁性を蔽い隠すことはできない。


「「理性、それは拷問である」とつい最近フーコーが説いた。なぜか。理性は思惟を秩序づけられた諸関係のなかに入れるが、秩序は、秩序に抵抗する諸要素を自分自身から必然的に排除する。したがって秩序とは暴力である、というわけだ。──この演繹の鋭さは不安をかきたてる。
そして、資本主義からの解放は本当は誰のためになると見なされるのだろうか。自分を圧迫する諸々の束縛に苦しむ自由な主体という概念は、『アンチ・オイディプス』の概念的・認識論的装置によって頭から排除されている。結局、主観性は、表象の秩序の内部でしか構成されない。「野生の世界」を主観以前の諸要素から解き放つことなど誰も考えられないであろう。
また、つまるところ著者たちは何の名において登記の秩序と戦っているのか。現状を批判する旗印となる何らかの価値に──現実に抗して──依拠しない限り、現にある状況をくつがえすことはできないのである」。


希望も現実的な見通しもまったく示さない「左翼」思想と、事態はいずれにせよ原則的に改善されうるという「素朴な」確信に基づかざるをえない左翼政治とがかくも折り合いが悪いのも、驚くにあたるまい。




ジャック・ブーヴレス『合理性とシニシズム』(岡部英男・本郷均 訳、法政大学出版局)p.16


そうか、どうも最近、「左翼思想」と「左翼政治」または「保守思想」と「保守政治」との折り合いが悪くなってきたように思えるのも故なしか。だから「左翼思想」と「保守政治」が結びついているかのように「見えたり」、「保守思想」と「左翼政治」が手を取り合っているかのように「見えて」、したがってそこに「裏切り」が発見され、非難の応酬が起こるのだろう、という印象を持つ。

合理性とシニシズム―現代理性批判の迷宮 (叢書・ウニベルシタス)

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