HODGE'S PARROT

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裏切りの理論のために

ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー『政治と犯罪』の最後の試論「裏切りの理論のために」。カフカの「法律について」の引用に続いて、挑発的で戦闘的な18の断章から構成されている。

  1. 裏切り者とは他人である
  2. 裏切りは誰もがする
  3. 裏切りのやむをえなさ
  4. 裏切りの弁証法
  5. 古風さ
  6. 大逆 Laesa maiestas としての裏切り
  7. 支配者タブーとその二面性
  8. 瀆神としての裏切り
  9. 不確定性と伝染性
  10. パラノイア的構造
  11. 投影
  12. 革命と裏切り
  13. 新たな裏切りタブー国家機密
  14. 国家機密
  15. 機密タブーの不確実性と伝染力
  16. 投影、再論
  17. スパイの神話
  18. 間接証拠としての裏切り


政治と犯罪 (晶文選書)

政治と犯罪 (晶文選書)


1964年に出版(邦訳は1966年)されたという「時代の雰囲気」を熱く感じさせるところが、とてもいい。サイのマークの晶文社ならではの本だ。

機密タブーの伝染力は無限である。それは、それと接触するあらゆる人間、あらゆる事物に転移される。機密漏洩者は、かれにかけられた嫌疑を、かれと「接触のある人物」たちに感染させる。かれにたいする審理は、それ自体が機密になる。機密の保護に任ずる組織も、やはり機密になる。誰が機密の担い手であり、誰がそうでないかということも、機密とされることがある。しかし何よりもまず、何が機密であり何が機密でないか、ということこそ機密なのだ。




「機密タブーの不確実性と伝染力」p.437

さらに、こんにち明らかに全世界に適用されている威嚇戦略は、その結果として、最新段階の軍備(すなわち、第一級の軍事機密)を敵にはっきりと誇示することを、余儀なくさせる。この限りにおいてその戦略は、徹底して平和主義的な原則と、ぴったり一致することになる。つまりこの戦略の有効性は、秘密の消去にもとづいているのだ。




「スパイの神話」p.442

したがって、全面的な戦争の脅威から、ふたつの結論が引きだされる。すべては国家機密である、という結論か、もはや国家機密などはない、という結論とが。ふたつの命題はある意味で同義であり、第一の命題は第二のそれに転換されうる。こういう事態に照応して、政治家は機密をしゃべりまくるが、そのくせ機密漏洩はめったやたらと取りしまられる、ということが起る。こんな状態の非条理性は誰の眼にも明らかだが、タブーの狂気性は、自己の解消を妨げるのである。




「間接証拠としての裏切り」p.442-443


ところで、訳者である野村修が、このH.M.エンツェンスベルガーの「政治的な」著書の「あとがき」で解読している「自己の倫理的な正当化の三つの形態」に注目したい。
おもに植民地問題について議論されているもので、その三つの形態/立場とは、理想主義者、自由主義者、公認左翼である。
何れの立場を取っても、「ぼくら」と「やつら」(植民地の搾取と抑圧に手を貸している「やつら」)に区別は、ない。


例えば、理想主義者は世界政治の問題から個人的結論を引き出す。かれらは犠牲的だが、しばしば誰からも信用されない。たいていは政治嫌いだが、ときには抑圧政策のアリバイに使われる。植民地の苦悩をいやしたがっているが、しかし「病患」ならぬ「症候」だけを診る。

自由主義者は「原則的に」、「行きすぎた」植民地主義や「無用な」軍事介入に反対するが、植民地民衆の「法外な」要求や「叛徒」の「テロル」をも非難する。かれらはおそらく、じぶんが偽善的なことは十分に承知している。決定的な時点が来ればいつでも自説を取り消す。

公認左翼は、植民地問題の知識をもち、国際階級闘争の経緯に注目し、それに対する立場を表明する。けれどもかれらは政治的結論を出しても個人的結論は出さない。「視察旅行のたぐいを除けば、活動は口舌の上にとどまる。国際連帯の方途は自国での革命的行動しかない、と認識してはいても、その行動の場を作りだそうとしないか、あるいは作りだせない。だからかれらの意見表明は体制の補完か、私的な精神衛生法のように見えてくる」。


ここにおいて、「ぼくら」が「ぼくら」に立ち返る試みは、すべて挫折する運命にある。「やつら」と「別人づら」をして「ぼくら」になることは、ありえない。

エンツェンスベルガーはここから、現状況では「高度」に発達した国々の住民はのこらず「やつら」であらざるをえないことを、いつわらずに確認し、そしてその上で、じぶんもまた「やつら」の一構成分子として、「やつら」は「やつら」なりにせめてもの理性的な道を発見できないものか、と自問している。




訳者のあとがき p.456

裏切り者と思われたがる人は、誰もいない。どのような立法者のもとにいようと、またどのような社会体制のなかに生きていようと、そのことにはかかわりなく、大部分の、いやほとんどすべての人は裏切り者はじぶんにはふさわしくないと、かたく信じている。




「裏切り者とは他人である」p.417

この大陸の住民のほとんどすべては、その生涯のある時点において、国家権力の眼から見れば、紛れもなく裏切り者だったのだ。むろん、かれらの裏切り行為のすべてが発見され、追及され、処罰されたわけではない。かりにそんなことがあったとしたら、ぼくらの大陸の人口はゼロになっているだろう。




「裏切りは誰もがする」p.418

讃歌を詠むな、時刻表を読め。時刻表のほうが正確だ。



by Hans Magnus Enzensberger

Politik und Verbrechen: Neun Beitraege

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