近代化とは西洋の通信・戦闘・統治スタイルを導入することを意味し、必然的に、服従と抑圧の手段も取り込んでしまったからだ。国の権限は、かつての中東の支配者たちが知らなかった社会の管理・監視・強制手法が持ち込まれたことで大いに拡大し、その結果、20世紀末までには、小国あるいは擬似国家のちゃちな支配者でさえも、過去におけるカリフやスルタンがもっていた以上の権力を手にしていた。
しかし近代化が伴ったもっと大きな副産物は社会における仲裁役を担い、伝統的社会にあってうまく権力を枠にはめてきた地主階級、都市の商人、部族長、その他の権限が消失してしまったことだ。こうした社会層による仲裁能力は段階的に弱められ、多くの場合、完全に奪い取られ、その結果、国の権力はますます強大化し、広がりをみせ、権力に対する制約や管理はなくなった。
フォーリン・アフェアーズ掲載、ブリンストン大学名誉教授バーナード・ルイスの論説『近代中東における自由と正義』(Bernard Lewis, "Freedom and Justice in the Modern Middle East")を興味深く読んだ。
とくに関心を惹いたのは、イラクのバース党が、ナチスとソビエトの「知/統治」を取り入れたと指摘するアメリカ人バーナード・ルイスの説得力だ。
ルイスは、現状のイスラム諸国に見られる独裁や抑圧を、中東で行われてきた伝統的な「統治手法」とは看做していない。ナポレオンによるエジプト侵攻を起点/断絶として、中東における統治システムが変化した、と見ている。
ナポレオンが平等という概念に言及したことは何の問題もなかった。他のイスラム教徒同様に、エジプト人も平等という言葉は理解した。東洋におけるインドのカースト制度、西洋におけるキリスト教世界の特権的貴族政治とは違って、イスラム教信者間の平等は7世紀に始まるイスラム教の基本原則だったからだ。
(中略)
しかし、ナポレオンが言及した拘束からの自由(リバティ)、あるいは拘束のない自由(フリーダム)の原則はどうだっただろうか。エジプト人は自由という言葉を前に困惑した。当時アラビア語で hurriyya と呼ばれた、自由を意味する言葉は政治用語ではなく、法律用語だった。「奴隷でなければ、その人物は自由である」というとらえ方だ。解放される、自由になるとは、奴隷としての身分から解放されるという意味で、西洋世界とは違って、「奴隷」や「自由」という言葉が、悪い統治、良い統治という意味のメタファーとして用いられることは最近までなかった。
ナポレオンの侵攻が中東における変革の第一局面であるならば、第二局面(断絶)はナチス・ドイツとの接触によって引き起こされる。
1940年、フランスはナチス・ドイツに降伏する。ビシーによる傀儡政権が樹立され、ドゴール将軍はロンドンに亡命政権(自由フランス)を立ち上げた。フランスの植民地は、ビシー政権に従うか、ドゴールと共闘するかは、現地のフランス人の総督と植民地の民衆の判断に委ねられた。
フランスの委任統治領であったシリア・レバノンをはじめ中東の植民地の多くはビシー政権に従うことになる。これにより、ドイツは中東へ足を踏み入れ、シリア・レバノンがナチスのプロパガンダの拠点となる。
バーナード・ルイスが注目するのは、この時期に、イラクのバース党のイデオロギー基盤が築かれたことである。
バース党はナチスの思想と手法を中東風に変えて取り込んだ。この若い政党のイデオロギーを支えたのは汎アラブ主義、ナショナリズム、社会主義だった。バース党は47年4月までは正式に結成されなかったが、当時の回顧録やその他の資料をみると、ナチスの影響がはっきりとみてとれる。シリアを拠点とする、ドイツとバース党の前身ともいえる集団は、悪名高いラシッド・アリを指導者とする親ナチス政権をイラクに樹立した。
ラシッド・アリ政権は1941年、イギリス軍との戦闘によって崩壊した。ラシッド・アリはベルリンに亡命し、エルサレムのイスラム法学者ハジ・アミン・フセイニとともに、戦争が終わるまで、ヒトラーのゲストとしてドイツに滞在した。
英仏軍は中東をドイツから奪還するも、第二次世界大戦後は両国は中東から退いた。
その後、ソビエトがやってきた。
バース党の指導者たちがナチス・モデルからソビエト・モデルへと乗り換えるのは微調整だけですみ、スムーズにいった。
バース党は、選挙活動を行い、選挙で勝利し、議会で投票することを目的とする、西洋で考えられるような政治組織ではない。むしろこの政党はナチス・ドイツや共産主義の文脈での政党、つまり、思想統制、監視、抑圧を手がける政府の装置と考えるべきだ。実際、シリアとイラクのバース党は基本的にこのラインにそって活動してきた。
バーナード・ルイスは主張する。中東の独裁・抑圧政治体制は、ファシスト、ナチス、そして共産主義という「ヨーロッパの支配モデル」を取り入れたものである。したがって、独裁制を中東の昔ながらの統治手法とみなすのは間違っており、そのような見方は、アラブの歴史への無知、現在のアラブへの軽蔑、そしてアラブの未来への無関心の裏返しにすぎない、と。
サダム・フセイン政権下のイラクのような体制、中東社会の一部の支配者がいまも維持しているような体制は近代になってから登場したものだし、イスラム文明の基盤とは異質なものだ。そこには、中東の民衆がよりどころとできる古くからのルールと伝統がある。