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自由はどこまで可能か Mind Your Own Business



ガリレオが地動説を唱え有罪になったとき『それでも地球は回っている』と述べた。私も郵政民営化をしなければ改革はできない。


by 小泉純一郎

どうせなら、郵便局だけではなく、裁判所も警察も、そしていっそのこと「国家の廃止=民営化(アナルコ・キャピタリズム)」したらどうだろう? 

というわけで、森村進『自由はどこまで可能か──リバタリアニズム入門』(講談社現代新書)を紐解いてみる。

現代の経済学の新古典派オーストリア学派シカゴ学派市場経済を支持するが、その論拠はかなり異なる。新古典派は、長期的に見れば市場は均衡に達し、パレート最適の意味で効率的な資源分配をもたらすから社会的に望ましい、と考える。
しかしそのためには完全雇用有効需要促進を目標として政府が市場に介入する必要があるという、ケインズ的発想にも賛成するから、リバタニアンとは言えない。それどころか、このような市場観をとると、計画経済と商品市場が結合した「市場社会主義」の方が現実の自由市場よりも効率的だとか、そこまでいかなくても、自由市場と計画経済の賢明な混合が必要だ、という議論が出てきやすい。つまり新古典派経済学社会主義を原理的に批判することができないのである。


p.27

「自由」というのは、個人的自由(身体的、精神的、政治的自由)だけを指すのではない。「経済的自由」も同じように尊重すべき「自由」なのである。「自己所有権」とは、人身の所有権のみならず、「自分の労働の産物とその代価としての財産の権利」も含むのである──それこそが、真に、「自由である」という「状態」である。

これに対してオーストリア学派は、常に変化する不確定性に満ちた世界では、個々人のそれぞれ異なった計画を調整して社会の繁栄と平和を実現するためには私有財産を認める自由市場経済しかないと考える。そこでは新古典派的な完全情報の静的な市場観とは根本的に異なった、情報が分散して存在する動的な市場観が前提されている。
市場の意義は一物一価の均衡状態をもたらすところにあるのではなくて(その状態は現実には決して達成されない)、競争や企業家(アントルプルナー)的行動という市場プロセスを通じて、中央で集められない知識が局所的に発見され、また有効に利用されていくという点である。


p.27-28

「平和」は、マルクス主義者や「左翼」の独占物ではない──なぜそのような「詐称」がまかりとおるのか、熟慮すべきである。重要なのは「個々人のそれぞれ異なった計画」をどのように生かすのか、である。

市場社会はしばしば「弱肉強食」の社会としてイメージされるが、これは間違いである。それは協力と分業によって相互に利益を与え合う共存共栄の場である。そこでは他の人々に比べて相対的に小さな利益しか得られない人々もいるだろうが、その人々も強者の犠牲になっているわけではなく、やはり市場から恩恵を受けている

自由市場における「競争」は、第三者に一層大きな利益を与えよう(そしてその見返りに自分も利益を得よう)とする人々の競い合いのことである。それは戦争やゲームにおける戦いとは全く性質が異なる。

戦争は、社会全体にとって無益で破壊的なマイナス・サム・ゲームであり、スポーツ競技やボードゲームなど通常の意味でのゲームは、誰かが勝てば他のプレーヤーがその分だけ負けるゼロ・サム・ゲームである。このような状況、特に前者の戦争では、「弱肉強食」という表現があてはまるだろう。

しかし市場での競争における勝者は取引相手との相互に有利な取引から利益を得るのであって、競争相手から利益を奪うのではない。市場取引はよく無反省に言われるような「等価交換」ではなくて、当事者双方にとって有利なプラス・サム・ゲームである。
市場での競争と競技や戦争における敵対とを混同する用語法は一般的だが、それは市場の生産的・共同的性質を見失わせる有害な発想である。


p.117-118

市場経済から恩恵を受けている人もたくさんいる。そのことを──その人たち(の生活)を──忘れてはならないだろう。明確で現実的な代替案も出さずに、口当たりの良い「机上の理論」を弄ぶ人たちには、警戒をしたほうがいい。

言い換えれば、リバタリアンが最小限にとどめようとしている権力は、ミシェル・フーコーの影響を受けた人々が、日常生活の中に「ここにもある、あそこにもある」として告発するような、偏在する無定形なミクロの権力ではなくて、大文字の公的な権力である。
そして今日の世界では、その権力の重要な部分は裸の実力行使ではなくて課税である。なぜなら課税はたとえ給料の天引きのような目立たない形を取っても、経済的自由への制約だからである。
権力を行使しているのは警察や軍隊だけではない。むしろそれ以上に、税務署がそれを行使している。また私有財産の利用へのさまざまな規制も、見逃されやすい権力である


p.110

よく「我々の税金を○○に使って!」と声をあげる人がいるが、そもそも税金を払うことに対して疑問を持つべきだろう。確認しておきたいのは、反権力闘争においては、私有財産に対する「権力の行使」こそ、まず問題化する必要があるということだ。

リバタリアニズムが賛成するのは、民族自決ではなくて住民自決である。なぜなら国家の支配が及ぶ範囲は、通常はその領土であって、属人的ではないからである。そして住民がどの民族に属するかは問題ではない。また原理的には一国家の内部の地方がその住民の意思によって分離独立することも正当である。
(中略)
またそれは、政治的決定を住民に委ねるという点で民主的だが、いかなる政治的決定も個人の基本的自由を侵害できないという点で、純粋に自由主義的な国家である。それは、自由主義的法秩序の維持と最小限の公共財と社会保障の提供という中立的な任務以外に、何ら独自の目的も理想も持たないし、特定の民族の歴史とも結びつかない。


p.143-144

マルチチュード市民やクィア人民を「自称」する人たちは、今ある国家に抵抗/を解体することよりも、コミューンのようなものを作って分離独立することもありだと思う。弁証法的プロセス──ヘーゲル流の「権利の根本は自由な人格の相互承認にある」というプロセス──を毛嫌い/無視して、ノマド的ライフを満喫したいのならばね。
「阿呆船」には、いつでも、誰でも、すぐに、乗れる。

政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。


p.131

別に「左翼」に「傾倒」しなくても、規律・規範から逃れることはできる。それなのに「左翼思想」を押し付けること、何かしらの倫理に訴え──恫喝し──「左翼思想」を強制すること、それこそが「自由の侵害」である。
そして「クィア理論」のような、一部研究者の「恣意的・排他的な分類」による「自己同一化」を強要すること──それこそが最悪の「自由の侵害」である。

「性的マイノリティ」イコール「クィアー」ではない。

リバタリアンが求めるべきなのは、形成において自生的な秩序よりも、内容において自由な秩序である。成立過程よりも、その制度が人々の自由を尊重するか、それとも集団的決定を押しつけるかの方が重要なのである。


p.189

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)