HODGE'S PARROT

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オーストラリア、同性婚法を却下

HODGE2006-06-13

TransNewsさんの「オーストラリアに負けた!首都キャンベラ周辺地域(ACT)のシヴィル・ユニオン法」より。


ジョン・ハワード首相率いる保守連合政権は13日、首都特別地域(Australian Capital Territory, ACT)が定めた同性カップルを法的に認知、保護するシビルユニオン法(gay unions、same-sex civil unions)を却下する決定を下した。

豪政府、同性愛婚を認めるACTの法律を却下 [goo ニュース/ロイター]

オーストラリア連邦政府は13日、首都特別地域(ACT)が定めた同性愛婚を認める法律について、これを却下した。連邦法が認めるのは男女間の結婚のみと明確化し、ACTの法律は現地時間午前零時(日本時間13日午後11時)以降無効となる。

ACTの法律は、結婚を「市民的結合」と表現し、同性愛カップルにも婚姻したカップルと同等の権利を与えようとするものだった。


Australia overrules gay union law [BBC NEWS]

The ACT law ruled that same-sex couples could be given the same rights as heterosexual couples, in an established relationship separate to marriage.

But many members of Prime Minister John Howard's conservative government opposed the change.

The government formalised federal marriage laws in 2004 to ensure that only men and women could marry.

Australia overrules gay unions [Pink News]

Australia’s Federal government has been labelled as homophobic after officially overturning a law in the Australian Capital Territory (ACT) which had created civil unions for same sex couples, killing any hopes for gay couples looking to register their partnerships before the legislation was annulled.


The ACT’s local assembly approved the bill last month giving same sex couple’s the right to a civil union after watering down the law to ensure it did not represent marriage.

Humphries to confront PM on same-sex unions [Canberra Times]

ACT Liberal Senator Gary Humphries will front Prime Minister John Howard in the party room this morning in an 11th-hour bid to work out a compromise on ACT same-sex unions.
The confrontation comes as pressure increases on government senators to vote for disallowance of the Commonwealth intervention that would block the ACT's Civil Unions Act.


As well this morning, the Speaker of the ACT Legislative Assembly, Wayne Berry, will make history when he meets Governor-General Michael Jeffery at 9.15, to hand over an unprecedented address from the territory's parliament urging that the Civil Unions Act be allowed to remain on the statute books.


The Opposition is also set to decide this morning that it will move disallowance of the Government's flagged action of recommending to the Governor-General that he use the Self-Government Act to disallow the Civil Unions Act, which gives formal recognition to same-sex relationships.


Labor's move would overtake and embrace similar Greens and Democrat plans. Only two government senators are needed to disallow the Governor-General's recommended action.


Senator Humphries, a former Liberal chief minister, has expressed his concerns about the Commonwealth over-riding the ACT and has continued negotiations with senior colleagues over the long weekend.


"I'm trying to negotiate some way out of this problem that doesn't involve the ACT's legislation having to be overturned," he said yesterday.

Carr 上院議員は「これはマイノリティの権利に対する攻撃なのである」と述べた。同性愛を差別し敵視する風潮がこれに加担している。

Senator Carr said yesterday that the fight was about minority rights.


"It's not a constitutional issue," he said of Commonwealth claims of trespassing on its power to legislate concerning marriage.


"It has everything to do with trying to work up a frenzy of opposition to homosexuality".


Noting that federal legislation had been pursued when the Commonwealth intervened against Northern Territory euthanasia law, he said disallowance via the Governor-General, with no reference to Federal Parliament, "was a particularly under-handed way" of achieving a victory for bigotry.


"If self-government is to mean anything then governments are entitled to make decisions within power and be held accountable at the next election," he said. "That's the critical issue here."

このハワード政権による同性婚法却下のニュースを読みながら思い出したのが、塩原良和『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義―オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容』(三元社)である。

ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義―オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容

ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義―オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容

この著書は、オーストラリアの(とくにハワード政権の)ネオリベラリズム的改革によって、「マイノリティの権利」がいかにして奪われいくのか──奪われていったのか──を実例を挙げて考察しているものだ。

国家のネオ・リベラリズム新自由主義)的政策が社会的格差を増大させ、グローバル化から取り残された人々の希望を奪っている。しかし「取り残された人々」のあいだでナショナリズム的傾向がむしろ強まる。なぜか。

ガッサン・ハージによれば、こうした人々は、もはや国民国家が自分たちに社会的上昇への希望をもたらしてくれないのではないか、というパラノイア的恐怖を抱いている。にもかかわらず、彼らは自分の属する国民国家にしがみつく以外の選択肢をもちあわせていない。


それゆえこうした人々は、自らの社会的上昇を阻んでいる存在とみなしたエスニック・マイノリティを排斥することで、自らの地位を守ろうと試みる。ハージが、「パラノイアナショナリズム(paranoid nationalism)」と呼ぶこうした現象の代表例が、1990年代後半における、ポーリン・ハンソンとワン・ネイション党の興隆であったといえよう。こうした草の根ナショナリズムは、やがて、社会的弱者への福祉切捨て政策や難民・亡命希望者への排他的、反テロリズムにおける強硬姿勢を正当化するために、ハワード政権によって動員されていく。




p.13

では、「人々」が、いかにしてナショナリズムに「包摂」されていくのか。「草の根ナショナリズム」が、いかにして権力に動員されていくのか。どのような「契機」がそこにあるのか、どのような「媒介者」がそこに存在するのか。そしてどのような理路がそれを「正当化」させているのか。

すなわち、この「個別化された普遍主義」とは、マイノリティのエスニシティを反-本質主義によって武装解除し無力化したうえで、既成のナショナルな権力関係に組み込もうとする主流派ナショナリズムを正当化するものに他ならない。


このようなエスニシティの「個人化」は、ハワード政権のネオリベラル路線における福祉国家多文化主義批判とも符号する。なぜなら、それは集団としてのエスニシティ脱構築することで、エスニック集団に対して行われる社会福祉への正当性をも侵食するのだが、こうした社会福祉の抑制とはじつのところ、社会構造のなかで従属的におかれた集団(非英語系移民および先住民族)への社会福祉の抑制に他ならないからである。




塩原良和『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義』(三元社)p.207-208

こうして、アカデミックな反─本質主義多文化主義の「意図せざる帰結」が明らかにされる。それはまず、ネオ・リベラリズム多文化主義の公定言説を流用して、集団としてのエスニシティというカテゴリーに基づいて行われている社会福祉の正当性を侵食することを可能にする。

さらに「個別化された普遍主義」に基づく集団としてのエスニシティの「個人化」は、主流派優位のナショナルな権力構造のなかにエスニック・マイノリティを包摂することを可能にする。いっぽう、そうした流用に反対する陣営が多文化主義によってエスニック集団のエンパワーを進めようとしても、その反─本質主義の論理が公定言説側に流用される「二重の解釈学」がそれを困難にしてしまう。
こうして、反─本質主義多文化主義とそれが公定言説化した「包摂」的多文化主義は、エスニック・コミュニティにとってのディスエンパワーメントの論理としても作用することになる。





p.210

G・C・スピヴァクは、「政治的利害が良心的なまでに可視化である場」において、利害関係に基づいた意識的な「戦略」として本質主義を用いることで、人々を政治活動に動員する可能性について語る。また太田好信も、支配的な文化勢力との交渉の結果、ひとつの戦略として本質主義を選択し、権利回復を図る社会運動があることを認めることが重要であるとし、そのために、「本質主義的言説の置かれたコンテクストをも言説同様に考察する」という「言説の個別性」への配慮が必要であると論じる。


(中略)


ただし、上述のような戦略的本質主義は、その意図にもかかわらず、エスニック・マイノリティ集団による主体的な対抗実践の可能性を十分に理論家することができない。
なぜならそれは、何が「戦略的(正当な)」本質主義で、何が「戦略的でない(不当な)」本質主義なのかを決定する権力をもっているのは誰なのかを(倫理的にではなく)理論的に特定できないからである。
より厳密にいうと、戦略的本質主義はマイノリティの側が「戦略的」に本質主義を主張する権利を倫理的には認めていながら、そうしたマイノリティにとっての「問題」とは何か、そしてどのような実践がそうした「問題」を解決しうる「戦略的な」本質主義で、どのような実践が「戦略的でない」むきだしの本質主義なのかを決定する権力を、マジョリティ側(の政治権力や知識人)に暗黙のうちに委ねてしまっている。なぜなら、もしそうではなくすべてのマイノリティの人々が、自らの「問題」を自ら定義し設定できる権力を保持しているとすれば、あらゆるエスニック集団の実践が「戦略的本質主義」として認められなければならなくなり、そもそも「戦略的本質主義」という議論が成立しなくなるはずだからである。





p.214-215

支配的文化に対して劣位に立つマイノリティが、同化圧力に抗しつつエスニックな日常実践を展開していくためには、あらかじめ一定の資源が必要となる。それゆえ、「ハイブリッド性を再生産する本質主義」という視角から、集団としてのエスニシティの本質化を人々の文化的に多様な実践と交渉を可能にする資本を蓄積するプロセスとして位置づけ、かつそうした本質主義的な実践が国民国家の同化圧力に抗するハイブリッドな実践を強化しうるものとして、福祉国家多文化主義をとらえなおすことが可能になる。
つまり、本書が事例分析の対象としたオーストラリアにように、支配的ナショナリズムの再生産が確立・制度化した社会においては、集団としてのエスニシティ本質主義的実践をエンパワーメントすることが、ハイブリッドな個人からなる社会秩序の形成への有効な方法となりうるのである




p.222-223


マイノリティの問題、そしてネオリベラリズムナショナリズムを考えるうえで決定的に重要な議論がなされている。必読だ。


[塩原良和『ネオ・リベラリズム時代の多文化主義』レビュー]