HODGE'S PARROT

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地方新聞の同性愛に関する記事より

栃木県の下野新聞に同性愛に関する連載記事が掲載されているのを見つけた(Anno Job Log さん経由で)。


「月たちのパズル 第二部性的マイノリティ」
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/kurashi/kikaku/moon2/m_index.html

大会に行けば、数百人単位でゲイの仲間と出会える。それは、楽しい。しかし、社会的にカミングアウトできないのであれば、情報は、その場だけにとどめておかなければならない。余計な情報を与えれば、その後どのように流出するか分からない。


 「今後、同性愛について社会的な理解が徐々に広がるにしても、最初は中途半端な理解でしょうから、(カミングアウトすれば)逆に苦しむことになる。だったら一生隠し通すしかないですね」

地域別出会い系サイトには、関東に住むレズビアンたちから、一日二十通以上の書き込みが寄せられる。不特定多数が閲覧するにもかかわらず、顔写真付きの書き込みも。顔をさらして自己PRするほど彼女たちは真剣だ。

 「都内には、同性愛者が千人規模で集うイベントもある。一方、栃木はこうした集まりが少ない」。ホクトは続けた。「本当の自分を、親友にも家族にも伝えられない人がたくさんいる。オフ会は、ネット上にようやく居場所を見つけた人たちが、そのコミュニティーが現存することを確認する場なんです」

一部に?と思うところもなきにしもあらずだが、しかし地方新聞にこういった情報が載ることそれ自体に意義があると思う。
東京や(下のエントリーでも書いた)ニューヨークのような大都市と比べると、日本の地方都市やアメリカの内陸地域などでは、そこで暮らす同性愛者が感じる「抑圧感」「孤立感」は──今でも──かなり違うはずだ。
さらに、「地域」や「世間」といった当事者を取り巻く環境、そして、両親や家族・親類との関係も──都会での生活とは違って──無視できないと思う。また(日本ではあまり問題とならないが)「宗教」「人種」「民族性」といった各人のバックグランドも考慮すべき観点となるはずだ。

最近、僕が「クィア理論」に疑問を持つようになったことの一つには、性的マイノリティと「そうではない人たち」つまり彼/女の肉親や家族・親類、彼/女が生活している「地域」、彼/女の「宗教」「民族」への/との「関係性」を、カヴァーしきれていないからだ。そして「個々の当事者」の抱える「それぞれ異なった問題」、「それぞれ異なったバックグラウンド」に対して「配慮」を欠いているからだ。

クィア理論は、「グローバルなクィア・フッド」の名の下に、セクシュアル・マイノリティの「それぞれ異なった差別形態」、「それぞれ異なったバックグランド」を、横暴にも無視していないだろうか。

「理論」は、結局、誰を利しているのだろうか。理論は理論の「限界性」をきちんと認識しているのだろうか。