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PACSについて 『ヨーロッパ市民の誕生』から



私たちが一つの社会の中に生き、その社会の平等なフルメンバーと認められ、自らもそう感じていて、定められた諸権利を正当に行使でき、定められた義務を果たさなければならないとき、「シティズンシップ」が成立する。


ヨーロッパ市民の誕生―開かれたシティズンシップへ (岩波新書)
p.2

フランス、オランダの欧州連合(EU)憲法条約への否決後であるが……宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生 ──開かれたシティズンシップへ──』(岩波新書)を紹介したい。
それはこの本の中で(2004年出版)、フランスの PACSについて、コンパクトに──そこに社会学的な観点も踏まえつつ──まとまっているからだ。

ただ、あまりにも「正攻法」の書き方……というか、欧州事情に精通している「わたし」が、そうでない「一般の日本人」に対し「ヨーロッパではこうなんですよ」と他人事のように書いている……と「感じ」ないことも、ない。それが岩波新書的教養人の良心なのかもしれないが……。

ところで、ヨーロッパにおけるジェンダーや家族生活に関わる権利となると、違いはこれまで国ごとに大きかった。政治的伝統、カトリックプロテスタントか、民法家族法のあり方、国民の権利・義務の考え方などが関係してくるからだ。たとえばスイスは、国民投票など民主主義のよき伝統をもちながら、なんと一九七四年まで連邦レベルでは女性参政権を認めなかった。かと思うと、首相を務める女性が、自分の出産のために産前・産後休暇をとった国もある。これは北欧のある国で起こったことで、ジェンダーフリーは、国会議員、大臣の間にも驚くほど進んでいる。


p.150

僕が言いたいのは、著者は「家族、ジェンダーセクシュアリティ)の視点にまでシティスンシップの射程を広げたこと」を「冒険」だったかもしれないと書いてあるが、それは決して「冒険」という<レベル>で片付けないで欲しいということだ。スイスの女性参政権獲得の遅れを驚くのならば、この本が出版された2004年現在、日本における同性カップルの「無権利状態」にも同じように驚愕して欲しいということだ。
今どき、「異常のカテゴリーを脱する」なんていう「物言い」それ自体が、「わたし」の読者には、「同性愛者はいない」と宣言しているようなものだ──それはただ単に自分には「見えてない/見ようとしていない」だけなのではないか。在日コリアンが「そこ=日本」にいるように、同性愛者も「そこ=日本」に、現に、いるのだから。
(だいたい岩波書店は、「人権」について、どれほど「確固とした見解」を持っているのだろうか。ラカンの50年も前のセミネールを出版した際、岩波書店は、「倒錯」という<差別用語>の扱いに何の問題も見出せなかったのだろうか。<差別語>を使用するなら、せめて「現代の人権擁護の見地に照らして不適切と思われる語句や表現がありますが、時代背景を考慮して、そのまま使用しました」ぐらい書いてもよいのではないか。人権に配慮し人道問題にコミットしている出版社ならば)


それを踏まえて、PACS法である。
PACS(パクス法、Pacte civil de solidarité、民事連帯契約)は、1999年11月にフランス民法典に加えられた法律。

PACS は、要点的にいえば、婚姻関係にない異性、または同性の成年者カップル(二人一組)で、裁判所においてこの契約を締結した者(二人)に、法的な婚姻状態にあるカップルがもつことのできる権利に相当する権利を認める、というものである。
それは税制上の扱い(共同申告、控除、相談)、社会保障、住宅(賃借権の継承)、国籍取得(一方が外国人である場合)などにもおよぶ。
最後の「国籍取得」とはどういうことかというと、フランス人と外国人のカップルの場合であり、PACS の契約を行えば、「フランス人の配偶者は、婚姻後一年を経過すれば、届け出によりフランス国籍を取得できる」という民法第二一条二項に準じ、一年後には届け出によって国籍を得られるものとするものである。


p.154

当時フランスは社会党政権。PACS 導入には、マルティーヌ・オーブリ(雇用連帯相)とエリザベート・ギグー(法相)という二人の有力女性閣僚が関った。

「人権の母国」と称されながらも、女性や家族の権利については、北欧諸国などに比べ、必ずしも先進国とは言えなかったフランス。権利の主張は伝統的なカトリック規範だけでなく共和主義的普遍主義とも衝突しかねない状況が横たわっていた。

生活において「私的」とみられる側面は、一般にはシティズンシップの問題と認知されにくい。なかでも夫婦や家族生活の具体的なあり方は、従来、「私的」なこととされてきた。フランスでは民法上の人の法的身分では、公的には「既婚者」と「独身者」に分けられ、そのように分類・登録される人々がそれぞれ具体的に営んでいる生活内容は個人的なことであり、公的な権利と関わるものとされなかった。


p.151

PACS 成立の背景には、「標準化された伝統的な家族生活からの変化」があげられる。そして社会はそれら「伝統的な家族形態では<ない>」人たちをどうやって取り込むかの方向に動いてくる。それが「異なる家族生活の権利の<承認>」に帰結する。

若者の意識はより自由になり、ことに女性が職業生活を重視するようになり、法律婚の拘束性をきらい、暫定的にあるいは永続的に事実婚がとられる傾向が増した。
(中略)
一方、同性愛者については、これが増加しているかどうかは社会学者も答えを出せない。ただ、九〇年代にはこのテーマが映画やテレビ番組で興味本位でない形で取り上げられることが増え、二〇〇〇年にはフランスの全テレビで同性愛をテーマに五五一の番組がつくられたという報告がある。


p.152-153

PACS について注目したいのは、「異性または同性」という文言のことである。最初PACSは「同性愛者のための法」として想定されたのであったが、アンチ・ゲイ勢力の反対により、「同性婚/同性パートナー法」という体裁を避け、そこに「異性」が加わったということを聞いたことがある。そういった意味では、PACS は同性結婚に対する妥協であり、ネガティヴな体裁なわけだ。

しかし最近僕は、PACSにおけるの「その妥協」が、「パートナーという形態」の可能性を広げることができる、とても有意義な「結合形態」ではないかと思っている。

パートナー契約をするのに、異性愛者同士の男女、同性愛者同士の男男、女女という組み合わせは、容易に想定できる「自然な」結合だろう。
しかし、PACSでは、性的指向異性愛、同性愛)に、こだわる必要はない。例えば、あるレズビアンは、もう一人のレズビアンとPACSにおける契約を結ぶことができるだけでなく、彼女は、異性愛女性とも、異性愛/同性愛男性とも、連帯契約を<選択>する自由がある。パートナー選択においては、「性(セックス)関係」だけが重要なわけではない。だから、異性愛男性同士、異性愛女性同士、ゲイとストレートのパートナーシップ/結合だって、ありだ。誰と、どんな<関係>を築くかは、当人同士の自由である。

様々な、異なる、「家族」の承認。様々な、異なる、「家族」の創出。これがPACSのメリットではないだろうか。
いずれ、「伝統的な」法律婚も、PACSに<統合>されるだろう。

ヨーロッパ市民の誕生―開かれたシティズンシップへ (岩波新書)

ヨーロッパ市民の誕生―開かれたシティズンシップへ (岩波新書)