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メッテルニヒの回想録

新奇なものや空しい理論の威光に抗しきれぬ性格の弱い人々を、私はあまりにも多く見てきた。だが、私の理性と良心は、そのような華やかな空論など、良識と正当な権利の法廷においては支持されえないものとして、絶えず斥けてきたのである。これらの多くの人びとが陥った誤りは、私によれば、悪しき手本の影響というよりは彼らの判断力の弱さに帰すべきものであろう。


メッテルニヒの回想録』(恒文社)

昨日ログ・キャビンの記事を読みながら思ったのだが、ポスト構造主義クィア理論がどれほど「現実の利益」に与しているのだろうかと疑問が生じてきた。つまり、ジュディス・バトラーの「撹乱」やジジェク経由のラカン理論など「主体」がどうのこうのと言っても結局それが何の役に立つのかだ。
未だに日本では同性結婚はできないし、未だに同性愛関係が「やおい」というネガティヴでバカにしきった<言葉>で呼ばれている──「フィギュア萌え族」の不当な「命名」は<問題化>されても「やおい」は<問題化>されていない。
だいたい「華やかな空論」や「自称哲学者の抽象的思考」が通じる「場所」なんて限られている。リアリティの政治/政治のリアリティをもっと重視すべきだろう。

というわけで、オーストリアの宰相・外交官メッテルニヒの「熾烈な政治戦略」はなかなか興味深い。

「政治」とは、もっとも高い次元において、国家の生死に関わる利害関係(インタレスト)を扱う術〔=学〕である。とはいえ、現在ではもはや孤立した国家は存在せず、そのような種類の国々は古き異教世界の年代記の中か自称哲学者の抽象的思考の中にしか見出せないのであるから、われわれとしてはけっして諸国家より成る「社会」を忘れてはならない。この近代世界に特有な本質的条件を閑却してはならぬのである。つまり、それぞれの国家は、自分に固有の利害のほかに、他のすべての国家と共通の、あるいはいくつかの国家集団と共通の利害をもあわせもつものである。政治学上の偉大な諸公理も、「すべての国家」に適用できる真の政治的利害とはいかなるものかという知識に由来する。


同上

メッテルニヒの回想録

メッテルニヒの回想録