HODGE'S PARROT

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セクシュアル・エイジェンシー

指向/嗜好をめぐる、アイデンティティ・ポリティックス論争──と今回の件について勝手に名づけたいが。議論は収束したのだが、一応僕なりに自分の考えを整理しておきたい。

今回の件は、ひとつには、ジュディス・バトラー理論の受容/応用への態度が大きいのではないか。
バトラーが「女性」と言う「カテゴリー」を脱構築したのを、さらに今度は、異性愛/同性愛の<指向>のレベルで考えれば、どうなるのか。
僕の危惧は、まさしくバトラーを批判したフェミニストによって、すでに・つねに俎上に挙がっていた。

ギブソン松井佳代による「バトラー理論の新たな倫理的ヴィジョン」(『身体のエシックス/ポリティックス』所集、ナカニシヤ出版)に、ナンシー・フレイザーらのバトラー批判が紹介されている。
ナンシー・フレイザーは、バトラーのカテゴリー解体戦略を、

差異をカオスに浮遊させるだけの非政治的な行為

としている。これは、様々な<嗜好>が、様々に「組み合わされ」、果てしなく、例示/考案されてしまう「可能性」が、実体を伴わない「カオス」になってしまうのではないかという危惧に通じる。
また、セイラ・ベンハビブは、バトラーのパフォーマティヴ・エイジェンシーの考え方は、

主体のもつ自律性が剥奪されていて、女性の解放につながらない

と、やはりバトラーの「非政治性」を批判している。
そう。バトラー理論が「非政治性」を帯びるように考えられうることは、<嗜好>による<指向>という「カテゴリー」への揺さぶりに、僕が「直感的」あるいは「経験的」に感じたものと同じだ。もちろんバトラーは「女性」という「政治的カテゴリー」を否定しているわけではない。同様に、<指向>という「カテゴリー」も、今回の件では否定されていたわけではない。

<指向>にある種の「規範性」「抑圧性」が認められうるのは、「アイデンティティ・ポリティックス」の必然だと思う。それゆえに、アイデンティティに基づいた確固たる「政治性」を主張できるのだから。このことは「女性」という「カテゴリー」を強調することにより、従来のフェミニズムが「政治的」にある程度成功を治めてきたことからもわかる。

しかし、バトラー理論の見逃せない点は、従来の「女性」というカテゴリーの規範から排除された人に目を向ける。重要なのは「つねに開かれているセクシュアリティ」、つまり、

将来における参入の要求を前もって除外しないよう、永久に開かれたものであらねばならないのだ。それは永久に異議申立てを受け続け、永久に偶発的なものでなければならない。

このバトラーの「異議申立て」は、まさしく<指向>というカテゴリーを再考させるのに十分だ。

もう一つ。バーバラ・ドゥーデンは激しくバトラーを非難しているのだが、それは、バトラーのことを

理論の権化となるために脱身体化された女性

と表現している。さらにドゥーデンは、

どんな脱構築家にも、私の身体性を骨抜きにさせるつもりはありません

と、主張。これはドゥーデンがバトラーの「戦略」を「身体を幻影と捉えること」と理解していることからきている。今回の件では、「生まれつき」どうかという、身体のレベルでの「相違」に通じると思う。「欲望」が、身体性=生まれつきを離れ、言説=恣意性に回収されてしまうのか。もちろん、これは、ギブソン松井佳代が指摘しているように、結局、認識論と存在論の混同による対立だろう。
ギブソン松井佳代によると、バトラーも「身体の物質性」を拒否しているわけではないが、ただ、身体の「意味づけ」が言語システムの外部には存在しないという意味において、「言説に依拠」している、という「認識(の可能性)」だ。しかしこの点に関しては、僕はバトラーよりもドゥーデンを心情的に支持したい気にさせられることを正直に述べておこう。

こういったバトラー理論への批判を踏まえてだろうか、1999年の『ジェンダー・トラブル』の序文では、バトラーは「政治」と「アイデンティティ」について言及している。

わたしは今も、性的マイノリティが手を携え、アイデンティティという単純なカテゴリーを超越し、バイセクシュアリティを抹消することを拒み、抑圧的な身体規範がふるう暴力に対抗したり、それをなくすことに期待している。


『ジェンター・トラブル』序文(1999) 高橋愛訳、現代思想2000年2月号

ここでのバトラーの枢要な考えは、セクシュアリティは「何にも還元できない複雑さを持っている」ものであり、それを踏まえて、性的マイノリティの連携がされればよい、と思っていることだ。そしてバトラーは「アイデンティティの政治」について明確に述べる。つまり、「あまりにせっかちに権力を階層秩序に還元したり、権力の生産的な政治上の局面を無視したりすることがないように」と願い、

政治化する目的のためにアイデンティティのカテゴリーを起動させることは、アイデンティティがそれに敵対する権力の道具になってしまうという脅威につねにさらされ続ける。そのために、アイデンティティを使わないとか、アイデンティティによって使われなかったりするする理由は何もない。権力を取りさった政治的位置というものはなく、権力にまみれることによって、規定的な体制に介入したり、それを転覆させる可能性としての行為体が出現することになる。

バトラーの「理論」は、決して「非政治的」なものでなく、明確に「闘争」を目指している。『ジェンダー・トラブル』は

ある集合的な闘争の文化的な生をなすものとして書かれたものであり、そのような闘争によって、性の周辺で生きているひとびと、また生きようとしているひとびとが、生きやすくなる可能性を拡げてこれたし、今後も拡げていくことになるだろう。