HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

要するに、生命にはひとつの基本的な傾向しかない。すなわち無生物の「安定状態」に戻るという傾向、つまり死に向かう傾向だ。



西谷修戦争論』の第一章「世界戦争」を再読した。個人的に多くの示唆を得た──しかし、それは、この論考で、あるいはこの一冊の著書全体で著者が読者に向けて意図して描いたであろうことを受け止めたかどうかとは、無関係である。気になった部分をメモしておきたい。

戦争論 (講談社学術文庫)

戦争論 (講談社学術文庫)



〈善〉が〈悪〉を生む
〈善〉が〈悪〉を生む。あるいは、〈善〉であるはずのものが避けがたく〈悪〉に転化してしまう。例えば、戦争という人間の企てに対して、その人間はどのように語ることができるのか。戦争に対して、人間はどのような評価を下し、いかなる価値を指し示すことができるのか。戦争の原因をどのように説明し、その責をどのように負うのか──そこで〈善〉〈悪〉をいったいどのような基準に則って名指しすることができるのか。そもそも〈人間〉とは自分自身に立てられる積極的な価値ではないか──人間が生存を意欲し、自己の存在を肯定しようとするかぎり、人間は〈善〉でしかありえない。

だから、善悪の超越的な基準があって、それによって人間の振舞いが判断されるのではなく、人間が存在する、そして存在するという事実そのものの肯定にまず〈善〉の基盤がある。そしてその基軸に照らして、人間の存続を脅かすもの、阻害するものが、人間にとっての〈悪〉ということになる。
そのように、人間の存在が〈善〉でしかありえないとすれば、それが実は〈悪〉だったのだと言ったところで、結果の規定を原因に遡及させるだけで、何も説明したことにならない。それに人間は、自分の存在を頭から否定するのでないかぎり、自分をア・プリオリに〈悪〉として立てることはできないのだ。



西谷修戦争論』(講談社学術文庫) p.68

したがって著者である西谷氏は、人間の内に〈悪〉の起源を見出して、人間と戦争との見かけの不等号の下に隠された等号を見つけ出すことではなく、問題は、〈善〉であるはずのものが避けがたく〈悪〉に転化してしまう、その「捻じれた事実」そのものの構造を解明することだと述べる。
しかしそういった観点は決して戦争を対象とした反省の中から生まれたのではない。直接的には戦争と「関係のない他の領域」の研究から見出された。フロイトの、とりわけ「メタサイコロジー」(メタ心理学)*1と呼ばれた一連の考察の中からである。

フロイトの「無意識の発見」が意味するのは、人間には無意識という属性があるということではなく、人間は自分でそうだと思っているものではないということ、ひとことで言えば人間的主体の非自同性(離心性)、非完結性である。いいかえれば人間は〈外部〉を内に抱えていることだ。それは〈外部〉が同化されて取り込まれているということではない。〈外部〉とは、同化しえない、コントロールの及ばない領域のことだ。そういう〈外部〉を内に抱え、自分でそうだと意識しているものではない、というかたちで人間は存在している。
だから人間の行為の意味は錯綜し、たとえば自己保存といった基本的には〈善〉であるはずの作用が「破壊衝動」に転じ、外界ばかりか自己自身の破壊を引き起こしたりすることになる。



戦争論』 p.69

人間の抱える〈外部〉の作用は、人間の行為を通して働く。それは人間にとってネガティブで不吉なものとして現れる。しかし、その〈外部〉なしに生命活動も、社会的な組織活動もなかった──生命活動が積極的に自己を維持し展開するものだとすれば、それは基本的に「攻撃的」であらざるをえず、自己保存を追及するということは、すでにそれ自体何かに対して「攻撃的」なことなのだ。単に自分の生存を脅かすものを破壊するというだけではなく、ときに自分の生存を確保しその生存世界を構築し拡張しようとする運動が、行き過ぎの一歩によって避けがたくその世界そのものをも突き崩してしまう。
〈善〉として追及されることが〈悪〉として発現してくるのは、そのときである。

それはあたかも、もともと〈外部〉に誘発され、それを抱え込んで襞のように成立した生命体が、自己の内にあって自己でない「運命」とか「本能」とか呼ばれるその力に突き動かされて、自己の可能性を徐々に拡大しながら同時に〈外部〉をも伸張させ、ついにはそれによって突き破られ〈外部〉そのものを露出してしまうプロセスであるかのようだ。



戦争論』p.70

ジークムント・フロイトはそこに働く力を「死の欲動」と呼んだ。生命を衝き動かす力と不可分であるそれは、生命体の限界である死にまで進ませようとする衝迫である。それは快感原則に背馳する、矛盾する。

〈刺激保護〉を突破するほどの強さを備えた外部からの興奮を〈外傷性の興奮〉と呼ぼう。通常は有効である外部からの刺激に対する保護が破壊された場合に関連させて、外傷(トラウマ)の概念を考える必要がある。外部から外傷(トラウマ)のような出来事が発生すると、有機体のエネルギー活動に非常に大きな攪乱が発生し、あらゆる防衛手段が行使される。しかしその際に快感原則は無力化されている。心的な装置が大きな刺激量によって満たされることは、もはやとどめようもない。



S・フロイト『快感原則の彼岸』(中山元 訳、ちくま学芸文庫『自我論集』) p.150

精神分析者としてのフロイトは、神経症患者は抑圧されたものを現在の経験として「反復する」しかない、と述べる。反復強迫は、快感をもたらす可能性のまったくない過去の体験を再び喚起するのである、と。
しかし、「死の欲動」を論じるフロイトは、意識や自我といった心的な内容を超えて、壮大な生命進化全般にまで議論を拡げていく。

有機体のすべての欲動が保守的なものであり、歴史的に獲得され、退行、すなわち初期状態への回帰を目指しているものと想定しよう。すると有機体が成長するのは、攪乱し、進路を逸らせるような影響が外部から訪れるためであると考えざるをえない。原初の生命体は最初から変化することを望まなかっただろう。そして条件が同一であれば、同じ生活の推移を絶えず反復しただろう。究極のところ、有機体の発展に残された痕跡は、われわれの地球と、地球と太陽の関係における発展の歴史の痕跡であったことになる。
有機体の保守的な欲動は、生命の推移において強制されたすべての変動を受け入れ、これを反復するために保存しているのである。そしてこの欲動は古い目標を、新しい方法と昔ながらの方法で追及しているだけであるのに、変化と進歩を模索している力のような誤った印象を与えているのである。
このすべての有機体の営みの最終的な目標を明らかにすることは可能であろう。この生命の目標が、これまで一度も達成されたことのない状態であると考えると、欲動の保守的な性格に矛盾する。逆に、最初の状態に戻ることを目標にしているのである。
生命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない。これまでの経験から、すべての生命体が〈内的な〉理由から死ぬ、すなわち無機的な状態に還帰するということが、例外のない法則として認められると仮定しよう。すると、すべての生命体の目標は死であると述べることができる。これは、生命のないものが生命のあるもの以前に存在していたとも表現することができる。




『快感原則の彼岸』 p.161-162

戦争論』の中で西谷は述べる。フロイトは心的世界を語りながら生命体としての人間を語り、意識をもつ人間を語りながら単細胞生物を語り、個を語りながら社会やあるいは人間という種、さらには生命一般までをも同じ言説に取り込んで語る──だからあらゆるレヴェルを混同した故意にペシミスティックな思弁として「メタサイコロジー」は批判されている、と。
しかし──意識、細胞組織としての身体、高等生物、単細胞生物、個、種、生命一般のレヴェルがあるとしても、レヴェルの違うものとして語られねばならないという約束があるにしても、

自我や意識はそれ自体では完結しておらず、また意識は身体のどこにもないが身体なしに意識はなく、その身体は細胞群からできているばかりか、単細胞からこの身体が形成される過程で生命進化の全過程が反復されるとするならば、一個の人間のうちに探索のための錘鉛を降ろすとき、その錘鉛はただ身体を貫いて地面に落ちるのではなく、いわゆる精神から生命まで、人間存在を構成するあらゆるレヴェルを縦走して貫く不均質なヴィジョンを生み出してもおかしくはない。
そのヴィジョンを導くのは「リビドー的」観点だが、このリビドー言説は、個人の心的な快や不快も、個と個の結合も集団の行動も、そしてまた細胞間の結合や生命体の組織も、ひとつの同じ原理で語り、それがカント的時空における存在の把握とはまったく違った様相の人間のありようを透視させることになる。

要するに、生命にはひとつの基本的な傾向しかない。すなわち無生物の「安定状態」に戻るという傾向、つまり死に向かう傾向だ。無生物にはいかなる「傾向」もなく、それ自身では変化しない。ある物が変化したり崩壊したりするのは、外的な作用による。



戦争論』p.74-75

自殺の能力
戦争論』の序において西谷は20世紀に起こった二つの「世界戦争」の〈意義〉について考察している──そこでの対象を「世界」と「戦争」にわけて。理念的でもなく、原理的にでもなく、現実的に、その二つの世界戦争が「人類史上初めて」実現された状況だったということを。それは二つの戦争によって「世界」がいやおうなく意識され、二つの世界戦争の帰結によって──核兵器の登場によって、三度目の世界戦争が「不可能」になったという状況において、初めて「人類」という言葉が現実味を帯びてきてしまった。

核兵器は人類、あるいは人間という種を新しい段階に入らせることになった。フランスのある作家の表現を借りれば、これによって人類は「自殺の能力を獲得した」のである。つまり人類の運命は一体となり、あたかも一個の人格のように全体的な反省意識の可能性を持った。あるいは持たざるをえなくなったということだ。核のボタンを押すとき、ひとは自分の運命だけでなく人類全体の運命を考えなければならないからだ。
猿が自殺しないということを考えれば、この「自殺の能力」の獲得は、人類にとって大きな進歩というべきだろうか、それとも災厄なのだろうか?



戦争論』 p.13

新たな能力の獲得が破滅の可能性をもちこむ──自殺の能力のように。「進歩」が新たな「災厄」をもたらす。「楽園」と「地獄」の区別はなくなる。「玉座」がそのまま「ゴルゴダの丘」になる……〈善(good)〉が〈悪(bad)〉になってしまう。

タルコフスキーの映画『ストーカー』で知られるストルガツキー兄弟の同題の小説がある。地球外文明の来訪跡とされる「ゾーン」(Zone)に侵入する男の話を書いたこの小説の巻頭には、「きみは悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから」というエピグラフが掲げられている。異文化との接触によって異様な廃墟と化したこの「ゾーン」は、危険と機密保持のため立ち入り禁止になっている。だが、そこには、未知の変状物質があり、密かに侵入してそれを持ち出し闇のルートに流すのを生業とする密猟者(ストーカー)がいる。そしてその子供たちはなぜか、みなミュータントになるという。この「ゾーン」が、ながらく正体不明の立入禁止区になっていたウラルの核惨事跡を想起させるのは、けっして偶然ではないだろう。そのことを思い合わせるとき、不可解な巻末の言葉は生きてくる。
核エネルギーに限らない。世界戦争以来、人間は未知の状況に分け入り、未知の状況と付き合っているのだ。自分のものと思っている「能力」の発揮が何を生み出し、人間をどこに導くのかを人間は知らない。



戦争論』 p.14-15

STALKER Andrei Tarkovski film



「自由」をもつ人間の盲点
戦争論』の序でストルガツキーの小説──そのエピグラフきみは悪から善をつくるべきだ」──に触れた著者は、その第一章「世界戦争」で再び『ストーカー』(道端のピクニック)及び映画のシナリオ『願望機』の話題に回帰する。「ゾーン」は奇妙なまでにウラル核惨事に似ている、と。

1957年のマヤーク核施設で起きたタンク爆発事故は、86年のチェルノブイリ原発事故が発生するまで、旧ソ連で最大の放射能汚染事故だった。が、ソ連ではすべてが秘密にされた。
 核開発でソ連をリードする米国の中央情報局(CIA)は、59年にこの事故を知った。しかし、57年に英国ウィンズケール(現セラフィールド)で起きた軍事用原子炉の大事故や米国内の核工場での事故などもあり、「自国の核開発の足かせになっては」と、米政府も秘密を保った。
 「ウラルの核惨事」「キシュティムの事故」として世界に知られるようになったのは76年。英国に亡命したソ連生物学者ジョレス・メドベージェフ博士が、科学雑誌に暴露したのがきっかけである



核時代 負の遺産「隠されたウラルの核惨事」中国新聞

ただし、ここでの西谷は、ストルガツキー兄弟の小説の内容が現実に起こった「ウラル核惨事」とあまりにも辻褄が合う符号があるとしても、そのような解読=解釈を受け入れない──そのような態度を取ることを否定する、否定しようとする。スーザン・ソンタグが『反解釈』で「ある種のフロイト主義」を拒否したように。

ただ、この作品は謎解きや寓意の解読を必要としていない。ソ連の小説というと、人はすぐ「自由」の拘束を思い浮かべ、「ゾーン」にも何らかの寓意を見ようとする。ある人はそれは警察管理下のソ連社会の寓意だと言い、ある人はそこに「戦後の闇市」のイメージを重ね合わせる。「表現の自由」が自分たちの側にはあり、その「自由」があれば何でも表現できるが、ソ連には「自由」がなく、そのために作家は書きたいことを寓意に託さねばならないはずだと思い込む傾向がある。
そして、自分たちに理解できない不可解なものがソ連人によって呈示されると、彼らの「不自由」に同情しながら、ともかくその裏に何か隠されたメッセージを読み取って、自分たちの理解しうるものに置き直そうとするのが、西側の人間の悪い癖である。
「自由」というイデオロギーに首まで漬かり、それにしがみついている自分に気がつこうともしない「西側」の人間の盲点だ。



戦争論』 p.129-130

川原泉問題

同性愛者などは、どんな時代、どんな地域にも、一定の割合で存在している。それは育成環境や趣味嗜好の問題ではなく、生まれついての自然なものだ。

 ◇結婚・財産など不当な扱い多く
 だが、日本の法や制度は、こうした性的指向の存在を前提としていない。結婚が認められない結果、財産の共有や遺産の相続など配偶者なら得られる権利が与えられず、公営住宅入居やパートナーが集中治療室に入った際の面会などで不当に扱われることがある。何よりの問題は、存在を否定するような認識や仕組みの中で当人も自身を肯定できなくなる場合が多いことだ。

 宝塚大看護学部の日高庸晴准教授(医療行動科学)が01年に大阪市の繁華街で若者約2100人を調査したところ、「異性愛者ではない」と答えた男性の自殺未遂率は、「異性愛者」と答えた男性の約6倍に上った。05年のインターネット調査(有効回答約5700人)では、ゲイやバイセクシュアルの男性の66%は自殺を考えたことがある。取材したゲイ男性のほとんども、ゲイなど身近な人を自殺で失った経験がある。

 特に危険なのが思春期。日高准教授の別の調査(99年)では、ゲイやバイセクシュアル男性が最初に自殺を図った年齢の平均は17・7歳、自尊感情も10代が最も低かった。カミングアウトしても親子関係が破綻するなど、ストレスや葛藤でうつ病などを発症するリスクも高いとみられる。

 自身もゲイであることを公表し、LGBTに対応した医療で知られる「しらかば診療所」(東京都新宿区)で心理カウンセリングなどを担当する平田俊明医師は「世の中が同性愛者を『いないもの』として動いているため、自分が必要とされる感覚が弱い人が多い。人を好きになることや性といった人間の本質的部分が偏見の対象になっているので、アイデンティティーへの影響も大きい」と指摘する。

 同性愛者への嫌悪感を「ホモフォビア」といい、同性愛者ら自身もこうした感情を持っていて、自己肯定感を持てない原因にもなっている。このホモフォビアを培う大きな要因が、教育とメディアだ。教員が同性愛者らに偏見を持つ発言をしたり、テレビのバラエティー番組でゲイをあざけりの対象とするのを見ることが当事者に深い傷を残す。



記者の目:偏見に苦しむ性的マイノリティー=中川紗矢子毎日新聞

川原泉は「子供向け」のマンガに平然と差別語を使用し、バイキンとまで書いた──なぜ、そのような差別を、ヘイトスピーチを、わざわざ子供向けのマンガに書くことができるのだ? なぜ、他人の家族を攻撃するのだ? なぜ、ゲイの子供がいる家族なのだ? なぜ人を、その差別という「凶器」で、その心に一生の傷を負わせることができるのだ?

差別・ヘイトスピーチの書かれたマンガを、そうとは知らずに、自分の子供に与える・与えてしまう──したがって差別の共犯になってしまった母親の愚かさを嘲笑いたいのか? 
そして自分の親から、自分に対する侮蔑、存在の否定が書き記されたマンガを与えられた、子供の絶望感を。
そんなに他人の子供を苦しめたいのか? 子供の母親の嘆き悲しむ声を聞きたいのか?
なぜ、他人に差別語を浴びせることができるのだ? なぜ、蔑称を平然と吐けるのだ。
その狙いは、いったい何なのだ?


「シューマンを聴きながら」3 少女マンガに巣食う差別主義  川原泉問題 ヴィヴァルディ《スターバト・マーテル》を聴いて ハイドン 《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》 人を苦しめるメタファー 武満徹の演出の波紋 地獄よ、おまえの勝利はどこにあるのか? 〜 ブラームス《ドイツ・レクイエム》 人は学者によって、強姦者によって、サディストによって……劣等感を教えこまれる 1995年に亡くなったピアニスト、ジョセフ・ヴィラについてアムネスティ・フィルム・フェスティバルより 『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義』より Reveal、あるいはヨブの逆説 アイヒマンの正常さは恐ろしい  川原泉問題 THE WEST WING 「中間選挙ラプソディー」と川原泉問題 ネットワークと戦うためには自らもネットワークの形をとらなければならない パリで同性婚を阻むもの 差別知 性見つめ、生の可能性問う  ジュディス・バトラー インタビュー 差別主義者は、差別主義者として生き、差別主義者として死ぬだろう シェーンベルク 『ワルシャワの生き残り』 「子供」に対する「猥褻行為」とは ブリテン 『戦争レクイエム』 身体の不自由な人に偏見を持ってしまう市井の人のHP閉鎖 メタ・メッセージはない。ナポレオン・ボナパルトへの頌歌 知的ジェノサイド、あるいは「胎児の夢」 撃てと命じる者を撃て 13歳少女、学校での同性愛嫌悪を苦に自殺 米高校生の5%が同性愛者、40%が暴力の被害を経験 断ちきられた歌/なき子をしのぶ歌 英国とタスマニア州のLGBT教育への取り組み SOY 「わたしたちの子供に手を差し伸べて」 死はドイツから来た名手彼の眼は青い 「憐れみたまえ、わが神よ」 「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」


アグネス・チャン氏は児童ポルノを「凶器」と呼んだ。それは正しい──たとえ「描かれた・創作された」児童ポルノであっても、それを現実の子供に、その「凶器」をこれみよがしに見せつけ、したがって子供を威嚇し、愚弄し、怯えさせ、羞恥心と劣等感と恐怖心を与え、人格を貶め、絶望感に陥らせるのならば。
しかしそうはなっていない。「創作された」児童ポルノは、少なくとも、その製作者は、その愛好者は、わざわざ子供に「それ」を見せつけることはしない。それはできないことになっている。幾重にも子供たちを守るネットワークが構築されている──したがって、その場合には、「それ」は、子供を威嚇し、愚弄し、怯えさせ、羞恥心と劣等感と恐怖心を与え、人格を貶め、絶望感に陥らせる「凶器」になっていない。
こう言ってもよい。「創作された」児童ポルノの制作者、愛好者、流通・販売も含めた関係者たちは、その児童ポルノが「凶器」であることを認識しているがゆえに、それを現実の子供たちにその刃を向けることはしない──彼らはそのことを〈配慮〉している。子供たちが傷つかないように〈配慮〉している。当事者である子供たちを傷つかせないように、それを見せないように、「ゾーニング」(zoning)という配慮を生み出した。子供を傷つけない配慮、苦悩を与えない配慮、威嚇しない配慮、愚弄しない配慮、怯えさせない配慮、羞恥心と劣等感と恐怖心を与えない配慮、人格を貶めない配慮…。
他者を思う〈配慮〉は〈善〉に他ならない──”You have to make the good out of the bad because that is all you have got to make it out of./Ты должна сделать добро из зла, потому что его больше не из чего сделать.
しかし川原泉は違う。子供向きのマンガに平然と差別を書いている。ゲイの子供が傷つくのをわかってやっている。「凶器」。
差別語を広め、同性愛者を愚弄する風潮を広めている──それによって傷つく子供がいるのを知っていて、それを行使している。「凶器」。
思春期の子供が差別で苦しみ、深く苦悩するのを知っていて、それを行っている。若いゲイの自殺が多いことを知っていて、それでもなお、だれでも見ることのできるマンガに差別・ヘイトスピーチを書いている。「凶器」。
子供が、他人が、人間が「自殺の能力」を有していることを知っていて、それをやっている。「凶器」。
親から与えられたマンガに──親から与えられたからこそ、そこに描かれた差別・偏見に大いなるショックを受け、家族から孤立してしまう子供がいるのを知っていて、それを野放しにしている。「凶器」。
自分の子供が自殺してしまった後で、その子供が性的指向による差別によって苦しんでいたことを知った母親が嘆き悲しんでいるのを知っていて、それでも差別マンガを放置している。「凶器」。

「自殺」はある意味で最後の無制約の自由の主張である。それは最後の拘束、つまり生存することへの拘束からの解放を手にすることだからだ。
だが自殺しようとする者が自分に刃を立てるとき、その行為は能動的だが、その結果「死ぬ」ことはすでに主体の行為ではない。いいかえれば、この行為によって自由を手にしようとした者は、その行為そのものによって永遠に自由を手放すことになる。



戦争論』 p.116-117


表現の自由」という〈善〉が、なぜ〈悪〉になってしまうのか。世界の日常は、自殺から逃れるための──自殺に追い込こもうとする〈意志〉によって、拡大された戦場になってしまったのか。人間の世界が〈戦争〉と同義語になってしまったのか。差別によって、われわれは意図せず、「この世界の」戦場に投げ込まれてしまったのか。差別は戦争なのか?

資料を使い権威をもって「ある人は劣等である」と言うことにより、地位構造と待遇の違いが作り出され現実化される。言葉とイメージにより、人びとが階級のどこに位置するかが示され、社会的階層は回避できない正当なものであることが示され、劣等感や優越感が生まれ、底辺の人に対してふるわれる暴力についての無関心が合理化され正当化される。意味を作り出すことにより、人びとの内面に、また人びとのあいだに、社会的優越感がつくられていく。それを壊すには、このような意味とその表現手段を壊していかなければならない。



キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』 (『Only Words』、柿木和代 訳、明石書店) p.50 *2

クラウゼヴィッツ戦争論
西谷修戦争論』は、そのタイトルからもわかるようにカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』に多くの言及がなされている。「戦記」やそれぞれの時代の「戦術論」はこれまでも無数にあった。しかし、クラウゼヴィッツの『戦争論』以前に、「戦争」そのもの──「戦争の本性」「戦争という現象」を考察したものはない、彼によって戦争ははじめて固有の対象として把握された、と。
クラウゼヴィッツによれば、戦争の本性とは、敵を完全に打倒し無力化することである。戦争という現象は、異なる手段をもって行う政治の継続なのである。戦争は基本的に政治行動の選択肢のひとつであり、政治的目的を達成するための手段なのである。

つまり戦争とは、敵をしてわれらの意志に屈服せしめるための暴力行為のことである。
暴力は、敵の暴力に対抗するために、さまざまな技術や学問を通じて発明されたものによって武装する。もっとも暴力は、国際法上の道義という名目の下に自己制約を伴わないわけではないが、それはほとんど取るに足りないものであって、暴力の行使を阻止する重大な障害となりはしない。これを要するに物理的暴力はあくまで手段であって、敵にわれわれの意志を押しつけることが目的なのであるということである。この目的に確実に到達するためにこそ、われわれは敵の抵抗力を打ち砕かなければならないのである。



クラウゼヴィッツ戦争論』(清水多吉 訳、中公文庫)上巻 p.35 *3

理論上の戦争(抽象的な、観念的な戦争学)について、クラウゼヴィッツは以下のように述べる。まず暴力の行使が際限なくエスカレートしてしまうこと、極限の、無制限の状態にまで力が行使されてしまうこと、すなわち暴力の応酬という「第一の相互作用」である。「つまり戦争とは暴力行為のことであって、その暴力の行使には限度のあろうはずがない。一方が暴力を行使すれば他方も暴力でもって抵抗せざるを得ず、かくて両者の間に生ずる相互作用は概念上無制限なものにならざると得ない、と。これが戦争についてわれわれの直面する第一の相互作用であり、また第一の無制限性というものである。」*4
「第二の相互作用」を導くのは恐怖である。「私が敵を未だ打倒してしまわぬ限り、私は敵の方が私を打倒するのではないかと常に恐れていなければならない。こうなると私はもはや私の行動の主人であるわけにはゆかず、私の行動は敵によって惹き起こされるものとなる。それと同じ関係は敵についても言えることである。これが第二の相互作用であって、やはり第二の無制限性を惹き起こすものである。」*5
敵を打倒しようとするなら、まず敵の抵抗力を知り、それに応じてわれわれの発揮すべき力を加減しなければならない──しかし敵の抵抗力を「知ること」そのものに困難が生じる。既存の諸手段の大小ならば、それは数量的なものであり推測することができる。しかし「意志力の強弱」の測定は難しく、動機の強弱によって推測できるにすぎない。われわれが敵の抵抗力を凌駕するに足りるほどの力を発揮しようとすることは、すなわち敵も同様の力を発揮しようとしていることを、われわれ自身がわれわれ自身の行動を省察することによって、知るのである。われわれ自身が行使しようとすることを、敵がそれと同じことを行使しない理由はない。「それゆえ、ここにもまた相互に対立しつつ登りつめてゆく新しい闘争が生まれ、理論上これも再び無制限なものとならざるを得ない。これが戦争における第三の相互作用であり、第三の無制限なものである。」*6

われわれの悟性というものは、常に明晰であり確実であることを希うものであるが、しかしその反面われわれの精神はまたしばしば不確実さに心惹かれるものを感ずることも事実である。人間の悟性は哲学的研究と論理的推論の小径に分け入るにつれ、ほとんど意識しないまま、自分が他人のごとく感じられるようになり、これまで馴染んできた諸々のものから見棄てられてしまったように思える場所へと踏み迷うものである。



クラウゼヴィッツ戦争論』 p.60

「絶対的戦争」、それ以外に目的をもたない戦争とは、個々の交戦国がそれぞれの政治的意図にもかかわらず、戦争行為のコントロールを失い、戦争そのものが〈主体〉となって、政治をその無制約の破壊行為のうちに呑み込むような戦争のことである。「彼我の強力行使は次第に昂じて極度に達」し、もはや政治はそれを限定することはできず、「これを制限するものがあるとすれば、それは戦争に内在して、強力の絶対的な発揮を阻止するような諸種の対抗物にほかならないのである。」


(中略)


クラウゼヴィッツの「絶対的戦争」は原理的抽象だった。だが、それが現実の事態となり、ひとたび起これば、戦争そのものが「絶対的主体」になるとすると、もはや戦争は政治に内属するものと考えることはできない。それは政治を超えて人間世界すべてを呑み込む出来事で、むしろ人間の政治あるいは社会の方がそこへ衝き動かされていることになる。
そして実際戦争は、それを理性的に操作しうる対象だと考える人々の難破を呑み込み、そのたびごとに肥大しながら、ついに世界をわがものとした。



西谷修戦争論』 p.63-65

*1:竹田青嗣中山元フロイト 自我論集』の解説によれば、メタ心理学は「心理プロセスを力動的、局所論的、経済論的な関係の中で記述する」心理学と定義。力動的な観点とは、心的現象をさまざまな力の葛藤と組み合わせによって分析しようとするものであり、心的な現象を対立する力の極性から分析する。局所的な観点とは、心的な装置が複数の系によって構成されていると考えるものであり、構造的に心を分析する。

*2:

ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で

ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で

*3:

戦争論〈上〉 (中公文庫)

戦争論〈上〉 (中公文庫)

*4:クラウゼヴィッツ戦争論』 p.38

*5:クラウゼヴィッツ戦争論』 p.39-40

*6:クラウゼヴィッツ戦争論』 p.40