ジョセフ・ヴィラ(Joseph Villa、1948 - 1995)というアメリカのピアニストについて偶然知った。これまで彼の演奏を聴いたことがなかった、ディスクも一枚も持っていなかった、その名前すらも耳にしたことがかった。
これまで、僕にとって、ジョセフ・ヴィラというピアニストは、知らない人だったのだ。僕は、これまで、JOSEPH EMIL VILLA という存在と無関係に生きてきた。
そんな見知らぬピアニスト、ジョセフ・ヴィラについての記事──アレクサンドル・スクリャービンの作品を録音したディスクの再発売に付随していた略歴に目が止まった。1995年に死去──46歳の若さだったことに。そしてその死因がHIV/エイズだったことに。
Joseph Villa, Pianist, 46 [New York Times]
Joseph Villa, a pianist who specialized in the Romantic repertory and who was regularly heard in chamber music and as a recital accompanist, died on Thursday at St. Vincent's Hospital in Manhattan. He was 46 and lived in Manhattan.
The cause was AIDS, said Steven Gray, his companion.
Mr. Villa was born in Garfield, N.J., on Aug. 9, 1948, and studied at the Juilliard School with Sascha Gorodnitzki. He later studied privately with Claudio Arrau and Olga Barabini, and he made his debut in a recital at Alice Tully Hall in 1972.
1948年にニュージャージー州ガーフィールドに生まれたジョセフ・ヴィラは、ジュリアード音楽院でサッシャ・ゴルトニツキーに師事する。クラウディオ・アラウにも学んだ。彼のピアニストとしてのデビューは1972年、アリス・タリー・ホールでのことだった。
今回、彼について知ったのは、それだけではない。さらに、ゲイであることをオープンにしているイギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough、b.1961)──彼はローマ・カトリック教徒でもある*1──が、やはりゲイであったジョセフ・ヴィラについてその著書で言及していることも、知った。
As a writer, Hough frequently contributes articles on various topics to the British Roman Catholic journal The Tablet. He tirelessly advocates changes in Roman Catholic attitudes in favor of acceptance of same-sex love, arguing that God does not intend for human beings to be alone. He forcefully challenges the Chuch's anti-gay interpretations as ahistorical and uncharitable.
In an article included in the gay anthology The Way We Are Now, edited by Ben Summerskill, in 2006, Hough writes of the difficulties he experienced growing up as a Christian in an environment traditionally hostile to homosexuality. He also postulates a mysterious link between his musical talent and his sexual identity.
Hough's other writings include articles about piano interpretation, pianists (among them two gay pianists: Shura Cherkassky and Joseph Villa), travel journals, and several very well written texts for CD booklets.
この二つの──あるいはそれ以上の事実を知ったとき、僕は自問した。なぜ僕は、このジョセフ・ヴィラというピアニストについて知らなかったのか、と。
だから…(これから)知るべきである、(もっと)多く知るべきである。これまで知っていたかのように振る舞い、そして、これから、もっと、確実にこのゲイでありエイズで46歳で亡くなったピアニスト、ジョセフ・ヴィラについて知らなければならないのだ、と。
わたくしは自分のみじめさを十分に知っておりますから、おそらく少しばかり不運な巡り合わせがあれば、わたくしの魂は苦しみにみちて、長い間お話しましたような考えをいれる余地がなくなることと想像されます。けれども、そのことさえもあまり大事なことではありません。この考えの確実さは心の状態によるものではありません。この確実さはいつも完全に安定しています。
ただ一つの場合にだけ、わたくしはこの確実さがわからなくなります。それは他人の不幸に触れる場合です。関係のない人たちや知らない人たちの不幸でもそうです。おそらくその方がなおさらそうで、そこには大昔の人たちも含まれています。
他人の不幸に触れると恐ろしい苦痛を感じますので、わたくしの魂がばらばらに引き裂かれ、しばらくのあいだ神を愛することがほとんど不可能になります。もう少しで不可能になるのです。そこでわたくしは不安になります。キリストがエルサレムの荒廃の恐ろしさを予見してお泣きになったこと(マタイ福音書23.37-37)を思い出しますと、少し安心いたします。キリストは同情ということを許してくださるものと存じますから。
そして、だから、以前ユーリ・エゴロフについて知らなかったことを知ったときの〈感情〉が再び強烈に甦ってきた。その事実に、その事実を知らなかったことに、ショックを受けた。その知らない人たちの「不幸」(his life was tragically cut short as a victim of AIDS)を知ってしまったという事実に。
なぜ自分は、これほどまでに素晴らしい表現力を有しているピアニストについて知らなかったのだろう。
……それはユーリ・エゴロフはすでに亡くなっていたからだ。1954年に生まれた彼は、1988年に33歳の若さで死亡している。エイズによる合併症によって。彼はゲイであることをカミングアウトしていた。
そのことを知ったのはつい最近のことだった。『YOURI EGOROV LEGACY』というディスクを偶然にも見つけたからであった──なぜ「レガシー」なんだろうとそのとき思った。
ショックであった。そしてエゴロフの死を知ってから再び聴いた《クライスレリアーナ》は強烈であった。心を揺さぶられた。打ちのめされた。音楽は「音楽そのもの」だけを聴いているのでは決してない。そのことを改めて理解した。切実なまでに。
そして──だから、怒りが込み上げてきた。ユーリ・エゴロフのような人に対して「バイキン」と罵った──平然と蔑称を使用し、差別語を弄し、子供向けのマンガにヘイトスピーチを書き放った──川原泉に対してだ。なぜだ? 何が狙いなんだ? その目的はいったい何だ? 後で書く。絶対に。書かざるを得ない。絶対に。絶対に赦せない。絶対に赦さない。
ユーリ・エゴロフ、そしてジョセフ・ヴィラは死んだ。それなのに、なぜ、「子供向きのマンガ」に平然と差別を書く人物はいまだ生きているのだ? なぜ人を苦しめる差別主義が野放しにされているのだ? 薄汚い差別主義はなぜ滅びずに生き延びているのだ? なぜだ? なぜなんだ?
ベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調《月光》/Joseph Villa plays Beethoven Sonata in C sharp minor Op. 27 No. 2 "Moonlight"
川原泉は、多くの人々がバタバタと斃れ、死んでいく状況を前にして、どうして「バイキン」なんていう<言葉>を吐けるんだ? なぜ「病気以外の苦痛」をも人(患者)に負わせるんだ? それが「当時の流行」だったからなのか? どういう「思い」でそんな<言葉>を書けるんだ? どうして「子供が見る」本に書き込めるんだ? どんな「意図」が、そこにはあるんだ?
こんな最悪の「ヘイトスピーチ」を、20年間もそのままにして「繰り返し」、同性愛者の人権を奪い、そして尊厳を──20年間も──蔑ろにしてきた……今後も続けるつもりなんだろう? いったい、いつまで?お前のことは、絶対に許せない。
スクリャービンのピアノソナタ第7番《白ミサ》/Scriabin Sonata No.7 performed by Joseph Villa
なぜ、川原は他人の家族を攻撃するんだ?
なぜ、平気でヘイトスピーチを垂れ流すのだ?
なにが目的なのだ?
なぜ、自分たちの家族を攻撃しないのだ?
なぜ、他人の家族なのだ? なぜ、ゲイの子供がいる家族なのだ?
おまえは、いったい、何者なのだ?
おまえには、良心というものが、ないのか?
ロベルト・シューマンの《交響的練習曲》1/Joseph Villa plays Schumann Etudes Symphoniques Op. 13 (1/2)
ある母子家庭の子供が「バイキン」ならば、その母親は「バイキンの母親」なのか。
母親は、自分の子供が「バイキン」と呼ばれることに、悲しみを感ぜずにいられるだろうか。
その母親の悲しみを、子供もまた感じ取り──感じ取ってしまい、そしてそれによって、また、悲しみが生まれないだろうか。そのような「家族」はどれほど多くいるのだろうか。いったいどれほど多くの人々に苦しみを与えているのだろうか──なぜ、人々に苦しみを与えるのだ?
ロベルト・シューマンの《交響的練習曲》2/Joseph Villa plays Schumann Etudes Symphoniques Op. 13 (2/2)
川原泉のお母さん、教えてください。ゲイの子供を持った母親は、バイキンの母親なのですか?
その存在は、恩恵なのですか? それとも不幸なのですか?
母子家庭なのは、あなたたち親子だけじゃない。
大切な人と死別したのは、あなたたち親子だけじゃない。
ベートーヴェン(フランツ・リスト編曲)交響曲第5番/Joseph Villa plays Beethoven-Liszt Symphony No.5, 1st movement in concert
イエスの十字架には「ユダヤ人の王」と罪状が記されていました。祭司長や律法学者、その他の見物人たち、そして一緒に十字架につけられた罪人までもが「おまえは他人を教えても、自分を救うことはできないのか?」「もしおまえが本当に神の子ならば、十字架から下りて、自分を救ってみるがいい!」と口々に叫び、イエスをののしりました。
イエスは断末魔の苦しみのなかでも、泣き言や恨み言を一切言いませんでした。それどころか、自分をこのような目にあわせた人々のために祈っていたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23・34)
十字架の上で、イエスはひたすら祈りつづけていました。しかし、すでに瀕死の状態であった彼のか細い声が、周りにいた人たちにはっきり聞き取れたはずはないのです。福音書によってイエスの最後の言葉が異なるのも、無理はありません。
ルカの福音書によれば、イエスは最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカによる福音書23・46)と叫んだことになっています。ヨハネの福音書では、「渇く」(ヨハネによる福音書19・28)、「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19・30)と言ったとされています。そしてマタイおよびマルコによる福音書には、こう記されています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイによる福音書27・46、マルコによる福音書15・34)
この言葉は、死の間際に、イエスが神に対してぶつけた絶望的な嘆きにようにも聴こえますが、そうではありません。じつはこれは『旧約聖書』の「詩篇」、第22編、ダビデの歌の冒頭(詩篇22・2)の一節に一致するからです。
「詩篇」第22編は、受難にあって、なお主を讃美する詩です。おそらくイエスは、十字架にかけられた自分に、「詩篇」第22編を重ね合わせながら、詩を唱えることで祈りつづけていたのでしょう。
ラフマニノフのピアノソナタ第2番変ロ短調/Joseph Villa plays Rachmaninov Sonata 2 live
単に人間的な関係の次元だけを考えましても、あなたに無限の感謝をいだいております。友情によってわたくしを容易に苦しめる力をえたすべての人が、あなた以外はみなときどきわたしくを苦しめて楽しみました。それはたびたびか、まれにか、また意識的にかなのですが、みな何度かそうしたのです。わたくしはそれが意識的であるのを知ると、相手に何も知らせないでナイフをとって友情を断ち切りました。
そういう人たちは悪意でそうしたのではなく、それは一羽のめんどりが傷ついているのを見ると、ほかのめんどりたちが飛びかかって、口ばしでつつくというよく知られた現象の結果でございます。
すべての人がそういう動物的な性質を持っています。そういう性質が他の人々に対する態度を規定するのです。自分でそれと知って、意思によってそうする場合もあり、そうでない場合もあります。ですから、ときどき考えの上では何も知らないのに、ある人の中の動物的な性質が他の人の中の動物的な性質の傷ついていることを感じて、それに反応をしめすことがあります。どんな状況であっても、またそれに対する動物的な反応がどんなものであっても、同じになります。
こういう機械的な必然性がすべての時にすべての人をとらえています。ただ人々の魂の中に本当の超自然的なものがどれだけの場所を占めているかに応じて、それを逃れているのです。
シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』 p.73
- 「シューマンを聴きながら」3
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- ハイドン 《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》
- 人を苦しめるメタファー
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- アムネスティ・フィルム・フェスティバルより
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- 死はドイツから来た名手彼の眼は青い
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- 「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」
*1:著書に『The Bible as Prayer:A Handbook for Lectio Divina』(祈りとしてのバイブル〜聖書への手引き)がある。 The Bible As Prayer: A Handbook for Lectio Divina
*3: