HODGE'S PARROT

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武満徹の演出の波紋



メンデルスゾーンの音楽を聴いていたら──《宗教改革/Reformation》と呼ばれる交響曲第5番ニ長調 Op.107 をクラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団の演奏で聴いていたら──ふと、ハーバート・クッファーバーグ著『三代のユダヤ人 メンデルスゾーン家の人々』のことを思い出し、その本を本棚から取り出し、パラパラとページをめくった。
気になった部分があった──それは本文ではなく訳者の横溝亮一氏による「あとがき」の部分だ。横溝氏はクッファーバーグの著書の訳出にあたって、この本への興味を掻き立てたひとつのきっかけとして、ユダヤ人の存在、そしてヨーロッパ社会とユダヤ人のかかわりあいに対する彼自身の理解の薄さがあったことを率直に認めている。横溝氏は彼が直面した経験を綴る。

もう10年ほども前、パリで作曲家武満徹氏を中心とする現代音楽祭が開催され、たまたま私も参加していた。ある日、有名な東洋博物館であるミュゼ・ギュメのホールで、武満氏のシアター・ピース的な作品が上演された。その際、武満氏自身の発案によるひとつの効果として、照明をすべて消した客席を、後方からスポット・ライトで頭上をなめるように照らしたのである。途端に場内はほとんど総立ちになり、ただごとならぬ雰囲気となった。何人かの客が武満氏を囲んで詰問した。「この作品はアウシュヴィッツを描こうとしているのか」


武満氏も私もそのいわんとするところが理解出来ず、しばし呆然としていたのだが、居あわせた作曲家オリヴィエ・メシアン氏の仲介で、今、行われたスポット・ライトの効果が、聴衆たちに強制収容所の脱走防止の探索灯を思い出させた、という事実を知ったのである。今なおパリに多く住むユダヤ系市民たちにとっては、戦後30年余を過ぎても、あのいまわしい記憶はなまなましく生きていたのだった。
公演が終わってから、武満氏と私は、我々日本人とヨーロッパ社会とのユダヤ人問題についての認識の隔たりについて語りあったことであった。


ところが、この経験は尾を引いて、また似たような出来事を武満氏と私はニューヨークで数年後に味わうことになる。ある仕事でニューヨークに滞在していた私たちは、一夜、作曲家志望のアメリカ人青年たちと会食する機会があった。その折、ふと、私たちはパリのミュゼ・ギュメでの異様な体験を話題にした。すると、一人のアメリカ人がテーブルに突伏して大声で泣き始めたのである。「そういう辛い話はやめてくれ。あなたたち日本人はあまりに我々ユダヤ人の過酷な歴史を知らなさ過ぎる。自分もユダヤ人だけど、同胞たちの悲惨な運命を軽いエピソードのように語られてはたまらない。今、このアメリカ社会の中でも、ユダヤ系市民がどのような眼で見られ、遇されているかをあなたたちは知っているのか」





横溝亮一「訳者のあとがき」 ハーバート・クッファーバーグ『三代のユダヤ人 メンデルスゾーン家の人々』より(東京創元社) p.364-365 *1


Mendelssohn: Symphony No. 5 3rd  ('Reformation')