HODGE'S PARROT

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ゾウと寝るな、ロバと寝るな

何かをおこなうにあたってその成功を保証しうるには、信頼の置ける材料に基づいた計算しかない。フランスと締結すべき講和は二つの視点からしか考察しえないものだった。すなわち、フランスに復讐したいという気持ちによって規定するか、それとも、列強の間にできる限り完璧な政治的均衡を打ち立てようという意図を発想の基礎に置くか、だ。


クレメンス・W・L・メッテルニヒメッテルニヒの回想録』(安斎和雄監訳、恒文社)

ニューズウィーク日本版』(2005・2・9号)に、ジョナサン・オルターによる「アメリカの報道機関が失った独立の気概」(The End of 'Pay to Praise')という記事が掲載されている。
内容は、トーク番組の司会者アームストロング・ウィリアムズが、政府から資金提供を受けていたいう「スキャンダル」などを例に挙げ、ジャーナリズムと政府の「不適切な関係」を問題化し、「ジャーナリズムのありかた」を説いているものだ。
またこれに関連して、民主党は政府の宣伝工作を禁止する法案を上院に提出したのだが、その法案の適用が国内に限られている「問題」にも触れている──それは、アメリカの国益にかなう報道をさせるため、CIA(中央情報局)が外国の報道機関に資金を提供することは「常識」だからだ。

ここで俎上に上がっているアームストロング・ウィリアムズの「スキャンダル」とは、自身の経営するPR会社を介して、「落ちこぼれをつくらない(ノー・チャイルド・レフト・ビハインド)」という政府プログラムの広報を請け負ったことだ。ウィリアムズは米教育省から24万ドルを受け取っていた。

ジョナサン・オルターの記事では、ウィリアムズが「政府御用達」の「マスコミ人」であることを指摘・非難しているが、その文脈において、彼が「黒人」であり「同性愛者」であることに一言も触れていない。
「人種」「性的指向」という「もって生まれた属性/マイノリティ性」を、「批判すべき好ましからざる材料」と結びつけようとする「操作」は、いっさいない。
問題にしているのは、「ジャーナリズムの倫理そのもの」であり、そこに当該人物の人種や民族、性別(ジェンダー)、性的指向など絡めることによる「印象操作」は行っていない(もっとも写真があるので、ウィリアムズが黒人で男性であることは一目瞭然だが、少なくとも「言論上」は、ない)。

ジョナサン・オルターは「ブログ・ジャーナリズム」に期待する。従来型のマスコミはどうしても「独立性」が犠牲になる。それに対しブログは、様々な声が反響する言論の自由そのものだからだ。
ただし、ブログの欠点も指摘する。

個々のブログは偏向が強すぎて、真実を見失いがちだ。
第2大統領のジョン・アダムズは、「事実は曲がらない」と言った。だが、今の社会では、事実は合成樹脂のおもちゃのように簡単に姿を変える。右派も左派も、自分と同じ意見を持つ人が伝えるものを「事実」だと思ってしまう。

ジョナサン・オルターは、取材対象のゾウ(共和党)とロバ(民主党)とはセックス/取引をしてはならない、と主張する。