HODGE'S PARROT

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『サテリコン』 Satyricon/1969/イタリア 監督フェデリコ・フェリーニ

映像に淫し、音楽に淫する。フェリーニの映画を観て、僕たちが淫することができるのはこれくらいであるが、古代ローマ人は、全てに渡って生活が淫していた。素敵だ。歌に笑にセックスに。まるで毎日がゲイ・クラブ&ハッテンバのノリ。

映画は、ブロンドの美青年エンコルピオと友人アシルトによる、美貌の少年奴隷ジトーネをめぐるいざこざから幕を明け、古代ローマの絢爛たる「淫」の世界が数珠繋ぎに紹介されるスペクタル。酒池肉林のごときトルマルキオの饗宴、SMまがいの鞭打ち、(美)少年/青年狩り、同性結婚、政変/奴隷と自由の転覆、ヘルマフロディテ誘拐、ミノタウロスとの決闘、エンコルピオのインポテンツ/妖術師によるポテンツ、カニバニズム……。

エンコルビオとジトーネはさすがに似合いのカップルで、褌のような腰巻一つで戯れる彼らには親近感を覚える──いまなら Jockstraps だろうな。
それにしても全編を覆う猥雑さには凄味さえ感じられる。クラクラさせられる。もちろん、ここまでやらなくてはフェリーニではないだろう。そしてここまでやるからフェリーニなのだろう。

「憂鬱と理想」について、ギース論の次の考察。「現代性とは、一時的なもの、移ろいやすいもの、偶発的なもので、これが芸術の半分であり、他の半分が永遠なもの、不易なものである。……およそ現代的なものが古代的なものとなる資格を得るためには。人間の生活が意図せずにそこに込める不思議な美しさがそこから抽出されなくてはならない。G氏が特に打ち込んでいるのがこの仕事なのだ。」ボードレール『ロマン派芸術』パリ、七〇ページ。──ほかの個所では「外的な生活のそうした伝説的な翻訳」と彼は言っている。

ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』第二巻p.97-98(今村仁司他訳、岩波現代文庫


原作はペトロニウスの小説。岩波文庫『サテュリコン』の解説を見ると、サテリコンの意味は「サテュロスのごとき好色の無頼漢どもの物語」だという。また主人公エンコルビオス(エンコルピオ)は、「抱かれる人」という意味のギリシア語で、つまりどんな男女にも身をまかす無節操な男ということだ。一方ギトン(ジトーネ)は、ギリシア語で「隣人」。彼は誰とでも隣人になる。