HODGE'S PARROT

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美は恐怖である、美をなんと呼ぼうが、それを前にすればわれわれは震えおののく


ドナ・タートの『シークレット・ヒストリー』(Donna Tartt, THE SECRET HISTORY*1で議論される〈美〉について。

「われわれは宗教的エクスタシーは原始的社会のなかにしか存在しないと考えている。文明の進んだ社会にこそ頻繁に見られる現象なのに。ギリシア人はわれわれと大してちがってやしない。彼らは非常に礼儀正しく高度な文明を持ち、抑制のきいた人々であった。にもかかわらず、嵐のような熱狂がしばしば社会全体に吹き荒れた──ダンス、精神錯乱、虐殺、幻影──いずれもわれわれの目からすれば紛れもない狂気そのものだ。それでもギリシア人は──ともかく、そのうち何人かは──その狂気状態に自由に出入りすることができた。これを神話だからと片づけてしまってはいけない。
古代の注釈者たちもわれわれ同様かなり惑わされているようだが、これらは非常に詳細に正確に記録されている。祈りと断絶による効果だという意見もあれば、酒のせいだという説もある。どちらにせよ、もともとヒステリー気質をもった集団が関与していたのはたしかだろう。まあ、それで現象の過激さをすっかり説明できるものではないだろうが。どんちゃん騒ぎをする者は非理性的で非知性的な状態に投げこまれ、そこで人格はまったくちがうものと入れ換えられる──『ちがう』というのは、どう見ても人間とは思えないものという意味だ。非人間的といおうか」

すさまじい神々のサディズムや暴力、残虐さで読むたびに不快感に襲われる戯曲『バッコス』を私は思い出した。どんなに残酷であろうとも、ほかの悲劇にはすぐにそれとわかる正義があるけれど、『バッコス』では蛮行が理性に勝利をおさめる。陰惨で、混沌としていて、なんとも不可解な世界だ。

「認めたくないが」とジュリアンはふたたび語り出す。「われわれのように抑制された人間にとって、自我を失うというものはなにものにも代えがたい魅力がある。真の文明人は──われわれと同様に古代人も──もとからある獣性を強固な意志で抑えつけることによって文明人となったのだ。いま、この部屋にいるわれわれはギリシア人やローマ人とひどくかけ離れているのだろうか? 義務、愛国心、忠誠心、犠牲にとりつかれているあの人々と? 現代の目から見たら、それらはみな冷たくて恐ろしいものなのだろうか?」



ドナ・タート『シークレット・ヒストリー』(扶桑社) 上巻p.71-73


Giovanni Battista Piranesi, Bacchus in the Act of Drinking

血なまぐさく、恐ろしいものほど時としてもっとも美しいとさっき話したのを覚えているだろうか? あれこそ、ギリシア人の考えだ。深淵なる考えではないか。美は恐怖である。美をなんと呼ぼうが、それを前にすればわれわれは震えおののく。ギリシア人やわれわれにとって、完全に自制心を失うほど恐ろしく、かつ美しいものがほかにあるだろうか? 人間としての束縛を一瞬にして投げ捨て、自我に付随する性質を破壊するより恐ろしいことが?
エウリピデスは酒神バッコスの巫女メナードをこう表現している。頭をのけぞらし、喉を星に向けて『人間というより鹿であった』と。これこそ完璧な自由ではないか!



『シークレット・ヒストリー』上巻 p.75

アリストテレスが『詩学』のなかで言っていますよ…死体のように実際に目にするのがいやなものほど、芸術作品に描くと見るものに喜びを与えると」
アリストテレスの言うとおりだと思うね。脳裏に深く刻みこまれ、われわれがもっとも愛する場面も、結局はそういう場面なのではないだろうか? まさにそのとおりだ。アガメムノン殺害、アキレスの激怒。火葬のための薪のうえに座すディド。反逆者の短剣とシーザーの血──シーザーの遺体が片腕をだらりと垂らしたまま、担架で運び去られる場面をスエトニウスがどのように表現したか、覚えているか?」
「死は美の母である」
「では、美とは?」
「恐怖なり」



『シークレット・ヒストリー』上巻 p.70-71


Jean-Léon Gérôme, The Bacchante


[関連エントリー]

*1:

シークレット・ヒストリー〈上〉 (扶桑社ミステリー)

シークレット・ヒストリー〈上〉 (扶桑社ミステリー)

シークレット・ヒストリー〈下〉 (扶桑社ミステリー)

シークレット・ヒストリー〈下〉 (扶桑社ミステリー)