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「殺人幇助」か「善きサマリア人」の二つに一つを他人に選ばせること 〜 グレッグ・ルッカの『守護者』を読んで(1)



グレッグ・ルッカの『守護者』(KEEPER by Greg Rucka, 1996)を読んだ。プロフェッショナルのボディーガード、アティカス・コディアックを主人公に据えた第一作。妊娠中絶手術を行っているクリニックの医者とその一人娘の命を守ることが本書においてアティカスに課せられた任務である。

守護者 (講談社文庫)

守護者 (講談社文庫)

解説によると、ルッカは創作学科出身で『守護者』は彼が26歳のときに書かれたものだという。この「創作科出身」であるということは、小説のプロットがエンターテイメントとして楽しめるよう工夫されていることが「理解しやすい」だけではなく、今回、題材として、すなわち「アメリカの事例」として扱われているアメリカにおける中絶問題の様相も、読者のために理解しやすいよう工夫されていることが、読者にもまた、それを読みながら感じることができるだろうと思われる。ただ、作者は主にアメリカの読者をその対象にしていることもまた容易に理解できる──それはアメリカの事例を特権的に扱っているのである、アメリカの事例は特権的に扱われねばならないのである。であるならば……
この小説を一般の米国市民の読者が「理解しやすい」ものとして読むための前提となるようなアメリカの事例を参照すること──もちろん、すべての事例を参照することはできない、有限個の事例しか参照できない。
有限の事例しか参照しなくとも(参照できなくとも)、そうやって得た知識は確実にある。
アメリカ人が直接自身の経験から学んだ知識およびアメリカ人が他の誰かの経験から得た知識、さらにそういった誰かの経験に基づいた知識を共有することによって事例ができあがる。その事例を別のアメリカ人が参照する。事例を参照し、学習し、そこから知識を得たアメリカ人──それが私たちが想定するアメリカの読者である。
だから、アメリカ人ではない私たちがアメリカの事例を参照し、そうやって知識を獲得したことをもって、私たちは過去にアメリカ人がやってきたことと同じやり方をしているのだと見做すことができる。
同じやり方をしていると見做している以上(アメリカ人の読者が過去に学んだやり方と同じことをしているのだから)、アメリカ人ではない(アメリカ人のようにはなれない)読者も、この本で扱われている事例が「理解しやすい」と思うことができる。
したがって、アメリカ人がそう思っているような「感じ」を想定し、それと同じような「感じ」を掴んでいるように思える状態は、むしろ、私が「こう思っている」のは実はアメリカの事例を学習したから「こう思っている」のだし、私が「そう思っている」のも同様に、アメリカの事例を学習したからこそ「そう思っている」のだと理解したほうがいい。
アメリカ人の読者が「理解しやすい」ものとしている心の状態、それを私たちも同じやり方で追体験することが重要なのである。なぜならば……

日々、アメリカ合衆国以外の国や地域で、アメリカ人のように考え、アメリカ人のように振る舞い、アメリカ的な価値観を持つことを表明することが期待されており、何を語るにも準拠としてアメリカの情勢やアメリカで起こった出来事に言及することが望まれ、アメリカ人が唱えた概念で物事を捉え、それを「起点」とし(他は前史かその亜流、追随、または「間違ったこと」なのである)、アメリカの「その言葉」を使ってそれらを齟齬なく解釈することが推奨されている。
アメリカ的なものに適応することが要求されている以上、この小説を読むにあたってアメリカ人がそれを「理解しやすい」と感じていることはどういうことなのか。以下は、この小説を読みながら、どうしても思い出さずにはいられなかったこと、そのときの心の過程、あるいは心の状態を辿りながら、それらを記述しつつ、それでも『守護者』というミステリー小説の読書感想文として齟齬のないようにできるだけ努力して書いたものである。


グレッグ・ルッカはまず本書のエピグラフに第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズ(Abigail Smith Adams、1744 - 1818)の夫宛の書簡を引用する。

新しい法典を作るにあたって、貴方に婦人のことを忘れないように、そして貴方の祖先よりも婦人に寛大で好意を示すようにしていただきたいと強く望みます。夫たちの手に無制限の力をあたえないようにしてください。あらゆる殿方がその気になれば暴君となりうることを忘れないでください。格別の思いやりや関心が婦人たちに払われないならば、わたしたちは叛乱を起こす意思があり、わたしたちが発言権、すなわち代表権を有さないいかなる法にも縛られたりしないでしょう。



グレッグ・ルッカ『守護者』(古沢嘉通 訳、講談社文庫)

このアビゲイル・アダムズの引用によってこのアメリカの作家は中絶の問題に対しどの観点を重視し、どのような立場であるのかがおおよそわかる。そしてこの引用に導かれた本文は主人公アティカス・コディアックの一人称で構成されている──男性作家が男性主人公の目を通して中絶の問題を描いている以上、何かしらアビゲイル・アダムズへの応答の形を取っているのだと想定できるだろう。

もっとも物語はこの「女性の権利」とは別の対立する観点によって叛乱が起こり、法に縛られない(法を犯してまで)実力行使を行う集団の現状がまず描かれる──中絶を行っているクリニックへの抗議、訪れる患者への写真撮影を含む嫌がらせと心理的圧力、医師の殺害予告などを含む脅迫である。”堕胎は殺人”なのだと見做す人たちによって。

40人近い人間が、通りに集まり、ニューヨーク市警の制服警官たちが築いているバリケードの向こうにいた。1994年に成立した中絶実施医院への出入りを認める〈FACE法〉は、こうした問題を解決するために立案されたのだが、いまのところ、まったく機能していなかった。大勢の人間がこの法律を、憲法違反、とりわけ、修正第一条の侵害だと考えており、物理的に出入りをさまたげたりはしていないものの、医院にやってきた女性を威圧する心理的な試練を与えていた。
われわれが、つらい思いをして学んだように、彼らを避けるすべはなかった。プラカードや、人形を貫いている二本の竿が窓から見えた。人形は裸で、赤いペンキがまぶされていた。何人かの人間が、血塗られた有刺鉄線が巻かれている大きな十字架を描いた看板を抱えていた──板の右上隅に"SOS"の文字が赤く塗られている。その一団とはかなり距離を置いて、他の反妊娠中絶派の人間がいた。より穏健な団体で、パンフレットを手渡したり、賛美歌を歌ったりしている。彼らの掲げているプラカードは、聖書の文句を書いたり、たんに”いますぐ中絶を止めよう”と書いてあるだけだった。



『守護者』p.13-14

アティカス・コディアックは、中絶反対派のデモによって騒然となっているクリニックに、中絶手術を行うガールフレンド──すなわち彼が子どもの父親である──の付き添いとして姿を現す。「これは正しいことなの」とガールフレンドのアリスンは確認するかのようにアティカスに言う。ここまででアティカス自身が中絶に関して何か葛藤があったかのような描写はない。アティカスはガールフレンドの「選択」を尊重している。彼は「女性の権利」を支持している。おそらく、「これは正しいことなの」というアリソンの言葉はアティカスだけに向けて言ったことだと思っているのだろう。ボディガードとして物理的な暴力からガールフレンドを守ったアティカスであるが、これ以降、アリソンは二人の関係を見直す。アティカスはその理由が(その時点では)わからない。
中絶手術をする女性の付き添いとして現れたアティカスがプロのボディーガードであることを知ったクリニックの医師が彼に仕事を依頼するのはスムーズな流れである。ドクター・ロメロには殺害を予告するかのような文面の手紙が届いていた。もちろん警察当局にそのことは告げてあり、身辺警護もしているはずなのだが、それは当てにならないと考えたほうがいい。なぜなら公務を遂行している警察官もプロライフ派(中絶反対、生命を擁護する者)とプロチョイス派(中絶擁護、選択を擁護する者)に分かれているからだ。

殺人以外にも中絶反対派による暴力攻勢は続いた。1977年以来のクリニックの封鎖や侵入は6000件以上にのぼり、中絶提供者に対する何千件もの暴力行為が行われ、放火や爆破が未遂も含めて200件以上、殺すという脅迫も何百件にも達した。これに対し中絶擁護派は、RIKO法と呼ばれる、もともとマフィアの取り締まりのために設けられた法律や、クー・クラックス・クラン対策法に訴えることで、クリニックに対する中絶反対派の妨害行為の封じ込めを図った。さらに1993年11月にはクリニック入口へのアクセスの自由法(FACE)が議会を通過し、翌年五月、クリントン大統領がこれに署名した。この法律は、クリニックに入ろうとする職員や女性を妨害したり、脅したり傷つけたりするような行動を連邦犯罪とするもので、これによって中絶クリニックが受ける暴力的妨害行為はかなり減少した。しかしその年の11月選挙では共和党が上下両院で圧勝し、翌年の議会にはクリントンの中絶容認姿勢に対抗する13の中絶規制法案が提出された。



荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』(岩波書店)p.141-142

グレッグ・ルッカは中絶を行っているドクター・ロメロを、女性、ヒスパニック、カトリック、そして離婚した夫との間にダウン症の娘がいる母親として設定する。ドクター・ロメオと娘のケイティを守るボディーガードは4人、混血のユダヤ教徒のアティカス、プエルトリコ人のルービン、日系人のデイル、ナタリーという女性。アメリカの作家は教科書的に正しくPCに配慮したかのようなキャラクターを続々と登場させる。アティカスとルービンが同性愛を肯定する意見を交し合っている場面も、どこか唐突であるが、それに連なる配慮の一つであろう。

中絶反対派も決して一様に描かれてはいない。穏健派と過激派はきちんと区別されているし、特定のキリスト教の宗派も名指しされていない。問題とされているのはジョナサン・クロウエルを代表とする〈声なき者の剣〉(SOS)という宗教原理主義団体である。ジョナサン・クロウエルは「イエス・キリストの名を借りて、憎悪と不寛容を説く」扇動家である。ドクター・ロメロがそうであるような、おもにハーレムの未婚の母を相手にしているクリニックを意図的に狙って攻撃をしている策略家でもある。「産婦人科医をなぶり殺しにしたペンサコーラの群衆の仲間よ。ジョン・バートやランドル・テリー、ポウル・ヒルといった中絶反対主義者の跡継ぎってわけ」。クロウエルはプロライフとプロチョイスの立場の人たちがそれぞれを尊重し互いの意見を交わすための土台である共通基盤作成会議自体を壊そうとしている。

「お願いだ、神と、イエスが抱いているあらゆる聖なるものの名において、お願いだ、これ以上赤ん坊を殺さないでくれ。きみの扉の向こうで死んでいる声なき無辜の者たちの殺戮をやめるのだ。きみ自身の子どもがきょう、死者の烈に名を連ねたというのに、きみはまだつづけている。おお、親愛なる神よ、やめさせたまえ、これ以上彼女に赤ん坊を殺させたもうな、これ以上女やその子どもたちを殺させたもうな。お願いだ……おお、お願いだ」
「われらは主の裁きに栄光を見いだしてはならぬ。とはいえ、われわれはたくましいままでいなくてなならぬ。決心を揺るがせてはならないのだ。われらはみな共通基盤作成会議のことを聞いている。われらは、妥協を通じて平和が訪れるであろうという約束を耳にしている。きょうの出来事は、たしかに、そのような和解に訴えかけ、われらをより一般的な抗議のやりかたへとはっきり引き寄せるだろう。
だが、それは嘘なのだ! 共通の基盤などありえない。休息も平和も和解もありえないのだ。これは絶対にゆずれぬ者同士の争いなのだ。われらは、ひとりの赤ん坊の半分を救うことはできないし、胎児の一部だけを救うことはできないのだ。すべてか無かのどちらかなのだ。オール・オア・ナッシングだ。



『守護者』p.241-242

アメリカの事例を誰もが一致して理解しておくべき知識だとは知らずに、アメリカ以外の場所で『守護者』を読んでいるとすれば、もしかすると、〈声なき者の剣〉のクロウエルなどは多分に誇張されたキャラクターに思われるかもしれない。しかしアメリカの創作科出身の作者ならそんなことはしないだろう。あくまでもリアルなキャラクターを創作物に配置する。中絶希望者を装った中絶反対派の女性──本書ではメアリ・ワーシンがその役割を担っている(物語後半ではそれと知らずに爆弾を運ばされる)──もドクター・ロメロを襲撃する。

中絶を行っているクリニックに対するいやがらせやピケ、侵入などの行為自体は、すでに1970年代から80年代初頭にかけて表面化しつつあり、政治的ロビー活動ではなく直接行動を目的とする組織が生まれていた。その中でも有名なのはジョセフ・シャイドラーのプロライフ行動連盟(PLAL、後にプロライフ行動ネットワーク、PLANと改称)である。シャイドラーはもとベネディクト派の修道士で、「プロライフ運動のグリーン・ベレー」と呼ばれた戦闘的な活動家であり、中絶だけでなく避妊にも、学校での性教育にも反対していた。その組織名からもわかるように、彼はさまざまな直接行動グループや活動家をつなぐ中核的な人物で、レスキュー・アメリカ、生まれる前の者のためのミッショナリー、キリストの小羊などの組織とつながりがあり、後に述べるオペレーション・レスキューの結成にも手を貸したといわれている。彼が書いた『閉鎖 中絶を止めさせる99の方法』(1988年)という本には、クリニックに対する攻撃の方法が具体的に述べられている。後期中絶された胎児や死産した胎児のカラー写真をポスターにする、赤く塗った人形や胎児をバケツに入れたものを見せる、クリニックだけでなく、そこで働いている人間の自宅にもピケを張る、「歩道カウンセリング」と称して、クリニックに入ろうとする女性を説得して中絶を思いとどまらせる、「真理チーム」と名付けたにせ患者とそのパートナーをクリニックに送り込み、中に入ってから中絶反対の宣伝をさせる、車のナンバーから患者の家をつくとめてつきまとう、クリニックに電話をかけ続けていつも話し中にし、患者が予約を取れないようにする、関係者の自宅に夜中に電話をかける等々の方法は、クリニックやそこに来る女性に対するいやがらせとして、常套的に使われたものである。



『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.114-115

だから、ルッカの『守護者』でクロウエルが『エゼキエル書』の引用とともに開示する思想自体は、キリスト教倫理の立場を背景にした生命尊重派にはある程度共有されたものであろう。クロウエルの言っていること自体は際立って独創的でもなければ際立って過激なことでもない。キリスト教文化圏において「堕胎罪」が意味してきたことを現代の言葉で的確に系統だてて表現している──その役割を与えられている。

三〇五年頃のエルビラ会議は、中絶にたいして刑罰を規定した最初の宗教会議であった。南スペインのエルビラに、スペイン本土から十九人の司教が集まり、迫害の圧力に屈した背教者の処遇を決め、異教の不道徳な習慣が教会にはいり込むのを阻止しようと試みた。重い罪にたいしては、数年の告解ですむものから、死の床にあってさえも聖体拝領を拒否される罰まで、それぞれ刑罰が規定された。エルビラ会議の規範六三と六八では、中絶と嬰児殺しも取り上げられた。

  • 規範六三 夫が不在のときに、姦通によって女の信者が妊娠し、そののち〔胎内の子を〕殺した場合、その女は一生聖餐にあずかることができない。その女が二重の罪を犯したからである。
  • 規範六八 洗礼志願者が姦通によって妊娠し、のちに胎内の子を殺した場合、その女は、死の間際になってはじめて洗礼を受けることができる。

これらのふたつの規範がほんらい問題にしていたのは、おそらく中絶ではなく、嬰児殺しの問題であったろうが、四世紀のバシレイオスやアンカラ会議の規範編さん者らは、この規範六八を中絶にも適用した。のちに教会法が集成されたときに、この規範六三は、ほかの中絶を扱った箇所とともにまとめられた。一生聖餐にあずかることなく告解をしいられる刑罰は、中絶をした女性にのみ適用され、夫や中絶に手を貸した者には適用されなかった。

(中略)

司教アンフィロキオスに宛てた三七四年の手紙で、バシレイオスは司教が尋ねた教会の職制や道徳上の問題に返事を書いた。問題のひとつは、殺人についてであった。バシレイオスは、それに答えて、中絶の問題を次のようにつけ加えている。

故意に胎児を堕ろした女は、殺人の罪に問わなければならない。そのときに、胎児が形成されていたか、形成されていなかったかは、問題ではない。生まれてくるはずの胎内の子ばかりではなく、いのちがけで中絶を試みた女も、弁護されなければならないからである。このような行為で、たいてい女は死亡するからである。さらにそれに加えて、胎児を堕ろすことは、少なくともこの行為を行う者の意図を考えれば、殺人である。それにしても、終身の刑罰を与えるのではなく、十年間に限るべきであるが、期間の長さで決めずに、告解のようすで決めるべきである。

ここでバシレイオスは、中絶の重大さを減少したり、神の恵みを軽視するような律法主義的な考え方はしていない。第一に、形成された胎児と未形成の胎児を区別する議論を、的はずれなものとして退けている。バシレイオスにとっては、なによりも意図が問題であった──すべてのいのち(胎児のいのちであれ、母親のいのちであれ)が、神聖だからである。第二に、中絶は罪であり、犯罪であり、非難するのは当然で必要であるとバシレイオスは考えた。しかし心からの悔い改めをするならば、神の恵みと赦しを受けることができるとも考えた。中絶は赦されない罪と考えるべきではないが、たいていの場合、ふたりの人間のいのちを奪うことになるので、人間のいのちを非常に軽視した行為であると考えなければならない。
さらにバシレイオスは、同じ手紙のなかで、中絶を手伝った人々を非難している。
それのみか、堕胎薬を与えた者も、胎児を殺す致死薬をもらった者と同じよう〔に、計画的な殺人者〕である。このようにバシレイオスは、中絶はすべて殺人であると非難し、教会を通して神にさばかれ、神の恵みによって赦しにあずかれる罪と見なした。

(中略)

学識豊かなラテン教父ヒエローニュムスは、ギリシア教父のバシレイオスと同時代人であり、すぐれた学者として、また「同時代の道徳を妥協することなく率直に批判する」ことでも有名だった。三八四年に書かれた有名な手紙のなかで、ローマ社会を観察し、「母なる教会」へのその影響を描写して、教会の未婚の女性が、日々不道徳に走るさまを次のように述べている。

彼女たちは、不妊薬を飲み、妊娠しないうちに人を殺すという罪を犯している。ある者は、姦淫の子ができたと知ると、薬剤を使って中絶をする。しばしば女はみずからいのちを落とし、自殺、キリストにそむいた姦淫、胎児殺しの三つの罪を犯したかどで、よみの支配者のまえに連れだされる。

オーリゲネースは、結婚の神学を表現したなかで、同じように不妊薬の問題にも関心を払っていた。しかし、ヒエローニュムスはここで、避妊薬と不倫の関係について懸念している。ヒエローニュムスにとってさらに重要な問題は、中絶、とりわけ婚姻関係外で妊娠した女性の中絶であった。この問題をヒエローニュムスは、手紙のなかで強く非難している。中絶が殺人であり罪であるという伝統的な主題がまた登場する。ヒエローニュムスは、中絶に失敗して死んだ女性を「自殺」と見なす新しい視点を導入した。またヒエローニュムスのもう一つの貢献は、肉体的な姦淫と精神的な姦淫という区別を聖書から導き、それを未婚の女性の中絶と関連づけたことである。



マイケル・J・ゴードン『初代教会と中絶』(平野あい子 訳、すぐ書房)p.72-77

クロウエルの存在は、このように、男性(のみ)が堕胎について議論してきたことの歴史を思い起こさせる。そして過去の時代と違い、教会の権威が衰えた現代では、クロウエルのようなキャラクターたちは時代に相応しい新たな戦術を試みている。それが胎児へのイメージを生まれたばかりの赤ん坊に見立て、胎児への同情を大衆に掻き立てることである。

「写真──赤ん坊のような胎児、ほほえむ胎児、親指をしゃぶっている胎児。屠殺された胎児たち──血まみれの人間の組織の山、切断された腕、ずたずたにされた脚、砕かれた頭蓋。こうした迫力満点の残虐な写真をぬきにして、アメリカの中絶論争はおそらく続きえないだろう。だが、これらの写真は国中に広くばらまかれている。教会の信徒席を回覧され、車のフロントガラスのワイパーにはさみこまれ、公的集会でスクリーンに映し出されているのだ。しかもこれらの写真や映画は、胎児には映像化されるだけの重要な実体性があるからこそ、これほど公的な存在となったのである。」
この引用が示すように、ヴィジュアル・イメージのふんだんな利用は、胎児は人間であり、中絶は殺人であるという中絶反対派の主張に説得力を持たせるための最も重要な手段の一つとなってきた。法廷やデモに瓶詰された胎児標本、あるいは中絶胎児の実物を持ち出すことに始まって、ビラやパンフレットによる胎児写真の大量ばらまき、同様の写真を使ったプラカードや巨大な看板、「声なき叫び」や「理性の失墜」のようなヴィデオ映画やそのTV放映など、戦略は多彩で多岐にわたる。また服の襟元にさすための、ごくごく小さいがすでにそれぞれ五本の指を備えた胎児の両足の裏をかたどったピンも作られている。いずれの場合にも、できるだけ胎児は「誕生前の赤ん坊」であることを見る人に印象づけるようなテクニックが駆使される。

(中略)

これらのヴィジュアル・イメージの氾濫には、ロザリンド・P・ペッチェスキーが言うように、「見かけの印象」を「メッセージのすべて」へと移し変えてしまう、アメリカ末期資本主義文化の政治スタイルが反映されている。また、ヴィジュアル・イメージを通じて商品へのあくなき購買意欲を煽り立てる広告の手法と同様、ここでも人々が写真や映像の中に「自分の目」でいかなる「真実」を見出すかについては、ほとんどの場合、キャプションやナレーションのかたちで周到な誘導が行われている。たとえば、中絶反対派の活動家が「戦争写真」と呼ぶ中絶胎児の映像の間に、ナパーム弾で焼かれたアジアの民衆を映したニュース写真を挿入してみせるスライドの場合には、次のような「説明」が行われる。
「あなたはカンボディアを憶えていますか。メディアを通じて国民がその恐怖を見るまでは、われわれは大量虐殺を無視していました。これらの恐ろしい写真が人々を目覚めさせたのです。今日、もう一つの戦争が進行中です。国民は、その現実の恐怖をも見なければなりません。(中絶のために注入された食塩水で皮膚が真っ赤に変色した胎児のスライドを挿入)私たちは、これをリンゴ飴ベビーと呼んでいます。食塩水は、きっとナパームのような感じでしょう。中絶者も爆撃手も、その犠牲者を見てはいなかったのです。」



荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.237-241

「視覚」は他の感覚と異なり、「見る者と見られる者のあいだに距離を置き、視覚化された物事を客観化する奇妙な特性がある」(Petchesky[1987:275])。視覚は他の感覚より上位に位置づけられ、他の感覚的経験の意味を引き下げる。その結果、「視覚は人々を真実に導き、肉体的なものから遠ざける」(Petchesky[1987:275])。つまり、胎児が「見られる」ものになればなるほど、女たちが自分たちの身体内で「体感している」胎児の存在は相対的に薄れる。〈胎児〉は、第三者によって生物学的に解明され、標本が作られ、マスメディアにも登場することで、日常的に「見られる」ものになったし、医療の中で超音波診断装置による映像化が進行することで、医療の場でも胎児のイメージが大きな位置を占めるようになった。つまり、メディアや医療の場において、かつては女の皮膚の下に隠されていた胎児の姿は暴かれ、見えるものになったのである。そこでは、客観的だとされる視覚が主観的な体感より優位におかれる。こうした一連の変化を、ここで〈胎児の可視化〉と呼ぶことにする。
〈胎児の可視化〉は、「受精以降の人間存在の連続性を主張する人々に、経験主義的な正当性を与えるのに役立った」(Morgan[1999:53])。ただ、ここで注意しておきたいのは、視覚イメージは意図的に操作可能だということである。現実とは異なる虚構を構築することで、「見る者」に誤った印象を植え付け、一定の方向に誘導することは常に可能である。その一例が、先に紹介したプロライフ派のビデオ『沈黙の叫び』であろう。あるはずもない胎児の痛みや苦悩をでっちあげたこのビデオは、家族計画協会の専門家たちから「科学的、医学的、法的に眉唾もの」だとさんざんに批判されている。彼らによれば、このビデオは被害者としての胎児像ばかりを強調しており、「中絶を求める女性たちへの思いやりや同情を唾棄し、もっぱら胎児に関心を向けるようにと人々を扇動する」ものである(Planned Parenthood Federation of America[2002])。
一方、フェミニストたちは、胎児の可視化は女性の不可視化を伴い、女性を単なる〈胎児の容器〉に貶める胎児中心主義をもたらすと批判する。



塚原久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ フェミニスト倫理の視点から』(勁草書房)p.10-11


一方でまた、今日の中絶反対運動において、アメリカ的価値を自認し、そのために活動に加わる人たちは、男性の指導者の下で過激な言動をとる〈声なき者の剣〉のクロウエルとその支持者たちのような人たち、またはグループだけでない。グレッグ・ルッカは、そのことへの理解を読者に促すかのようにプロライフ派の女性を二人登場させる。ヴェロニカ・セルビーとマデリン・シュラムである。
ヴェロニカは、かつて15歳のときに妊娠し自分で中絶をしようとして失敗、それが原因で車椅子が必要な身障者になってしまった。中絶による「犠牲者」であり、中絶反対派に「転向」した人物である。彼女は中絶に反対するロビー活動を長年に渡り行い著書も出版している。このヴェロニカのキャラクターは「ロー対ウェイド判決」で原告だったノーマ・マコービーをどことなく思わすところがある。プロライフ派への「転向」と失っていた信仰を取り戻したこと、そしてマデリンと同居しており二人の間に何か特別な親密さがあるように描かれていることも。ヴェロニカ・セルビーはアティカスにクロウエルは殉教者なのかという問いに対し、こう答える「あの人が演じている役割のひとつではありますが、役にすぎません」。
マデリンは主要人物として扱われていないが、ニューヨーク大学の正教授であることから、男性主導の中絶反対派グループとは距離を置き、また素朴な宗教観から運動に目覚めた人たちとは別の行動原理によって中絶反対の活動をしているように思える。ヴェロニカ(彼女はプロチョイス派のドクター・ロメオと友人関係を続けている)もマデリンも自分たちの信念に基づき主体的に行動している。

フェミニズム運動は、いうなれば本当に女を男に変えてしまうとか、一種の女の脱セックス化を望んできました。彼女たちは、男と女の間には重要な違いは全然ないというふりをしているのです。女が仕事をして、同じ仕事なら男と同じだけ女も支払いを受けるということについては、私も大いに賛成です。中絶の考え方全体で私がとても許せないと思うのは、家庭でのつとめ、子どもたちを育てたり、家をきりもりしたり、夫を愛したり世話することが、どういうわけか女の地位を低くするという考え方なのです。」
「中絶についての問題の一つは、社会での女の地位がもっと低くなることです。フェミニストがこの点で私と意見が違うのは知っているし、私は自分ではフェミニストだと思っていますが、この問題で他のフェミニストとつながるのは難しいですね。私は、中絶が選択、つまり逃げ道としてあることは、これまでよりもっと男が女を搾取しやすくなると思うんです。中絶ができるかぎり、彼らはたぶんこれまで以上に自分の行動に責任をとったり、自分の行動の結果を考えたりしなくなるでしょう。」
「私はウィメンズ・リブは間違った道を行っていると思います。彼女たちはありとあらゆることに不平を言ってて、いつだってそんな調子なんです。女はこれまでは男よりも優れた人間でした。もっと文明的だし、利己的でない性質を持っています。でも今では、女は利己的になることで男と張り合っているんです。」
このように中絶反対派の女性たちは、女と男の間には消しがたい性差が存在すると見ているが、それが上下関係や女の劣位に結びつくとは考えていない。むしろ女の生殖能力や利他性を男への優位性のあかし、あるいは物質主義や利己主義に対する歯止めとして高く評価し、中絶によって女が自らその力を放棄することは、女への社会的敬意をも失わせる結果となって、結局は女自身の利益にならないと考えているのである。ここにあげた女性の一人がフェミニストを自認しているように、じつはこうした主張は元来は必ずしもフェミニズムと無縁のものではなく、欧米の第一波フェミニズムにおいては母性主義フェミニズムとして知られる類似の思潮が存在していたし、現代のフェミニズムの中にも女性性や女性的価値を高く評価する文化派フェミニズムやエコロジカル・フェミニズムなどの流れがある。また著名なフェミニストの法律家であるキャサリン・マッキノンは、根本的に不平等な両性関係の下で「プライヴァシーの権利」として中絶の自由を認めることは、女ではなくむしろ男の利益を増すことであると主張して、次のように述べている。
「中絶は女たちに対し、男が女とセックスをするのと同じ条件で男とセックスをすることを約束する。女が自分のセクシュアリティへのアクセスをコントロールできるのでないかぎり、これは異性間性交での女の手に入れやすさを増すだけである。換言すれば、ジェンダー間の不平等という条件の下では、この意味での性の解放は、男の性的侵犯を自由にするようには女を自由にはしてくれない。中絶が受け入れられることは、男たちが簡単には無視できない一つの現実的結果、頭痛以外に女たちがセックスを拒否することのできた、たった一つ残された正当な理由を奪い去ってしまうのである。」
一方、反中絶派の中にも生命を支持するフェミニストのように、フェミニストを名乗る女性たちのグループが存在する。第一波のフェミニスト、スーザン・B・アンソニーの伝統を受け継ぐと自称するこのグループは、フェミニストの原則は「公正、暴力反対、差別反対」であり、中絶は女に対する暴力だから反対しなければならないと主張する。
これらの事実は、性別がそのまま中絶容認か反対かを分ける尺度とならないことを示しているばかりでなく、フェミニズムもまたじつは「女とは何か」という定義にかんして、あるいは「中絶の権利」の評価にかんしても、一枚岩でないことを示唆している。中絶に反対の立場をとる、あるいはそれを「権利」として位置づけることに懐疑的なこれらの女性たちは、中絶を「権利」として擁護する立場から見た場合には、女でありながら女の利害が何かが理解できない虚偽意識に目をくらまされた人々のようにうつるかもしれない。しかし彼女たちの自己認識は、女であるとはどういうことで何が女の利益になるかについて中絶擁護派のフェミニストとは異なる意見を持ち、自分たちなりに女の利益を守ろうとして女のために戦っているというものなのである。



『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.169-172


主要登場人物が、その確固たる個性とともに紹介された後、『守護者』の物語は大きく展開する。中絶医ロメロの娘ケイティが殺害される。直前の章でケイティが母ロメロと二人で映画館へ行くシーンが描かれる(もちろん護衛のアティカスらも同行している)。ダウン症であるケイティは映画館の階段の乗り降りに難渋する。そんな彼女を近くにいた少年たちは嘲る。家の中と違い、家の外の世界はケイティのような子供を容赦しない。それでも、嘲りの視線を感じ、囃し立てる声が響く中で、ケイティは階段を着実に一歩一歩乗り降りする。母親は階段の踊り場で娘を抱きしめる。
このようにケイティの潜在能力が示された後に、彼女が殺害されることは、中絶をめぐる論争における反対派の主張を投影したものであると読むことができる──そのようにアメリカの創作家出身の作者によって、そのように導かれる思いがする。

中絶は不正であると結論するために、「われわれと同じような将来の価値」説は殺すことの不正さを示す説明としてどれくらい完全でなければならないのだろうか。この説は、殺すことが不正であるための必要条件についての説明である必要はない。療養施設にいる人々のなかには、価値ある人間らしい将来をもっていない人もいるかもしれないが、別のさまざまな理由からして彼らを死なせることは不正だろう。また、殺される被害者が価値ある将来をもっている場合に、この説だけが殺すことが不正であること示す理由である必要もないことは自明である。この説が主張するのは次のことだけである。すなわち、被害者がわれわれと同じような価値ある将来をもっている場合に、そのような将来をもっているということそれだけで、その生命を奪うことを深刻な不正とする強い推定を生み出すのに十分である、ということである。



ドン・マーキス『なぜ妊娠中絶は不道徳なのか』(山本圭一郎 訳、勁草書房、江口聡『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収)p.202-203

多くの人びとがリベラルの立場よりも保守の立場の方が擁護しやすいと感じてきたのは、保守の立場では、受精卵から成熟したヒトに至るまで、有機体の発達は段階的かつ連続的であると示すことができるからである。それゆえ保守派は、リベラルの立場がこの連続的な過程の一点で線を引き、その前では中絶が許容されるがそれより後では許容されないと主張するのは道徳的に恣意的であると論じることができる立場にいる。これに対するリベラルな立場の返答は、発達過程の連続性を強調することは誤解を招きやすいというものになるだろう。保守主義者が行っていることは、実は、リベラルな立場に対して、「あるものが「ひと」であるためにもたなければならない諸特性を特定し、リベラルな立場が指摘する時点において、その発達中の有機体がその諸特性を獲得しているということを示してみろ」と要求しているにすぎない。



マイケル・トゥーリー『妊娠中絶と新生児殺し』(神崎宣次 訳、勁草書房、江口聡 編・監訳『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収)p.102

ケイティが殺されたことにより、アティカスらは当然のごとく動揺する。中絶賛成派と中絶反対派の抗争もより一層激しくなる。そして『守護者』はミステリー小説の形態を取っている。ケイティを殺したのは誰なのかが問題になってくる。真っ先に疑惑が向けられるのはクロウエルら〈声なき者の剣〉のメンバーである。しかし殺害までするだろうか? しかも殺されたのはドクター・ロメオではなく娘のケイティであり、状況から判断して、医師と間違えられて殺されたのではない。「胎児の殺害者」である医師へ神罰を下そうとする過激派の主張とも齟齬がある。中絶反対派のイメージを損なうために中絶賛成派が仕組んだという線も決して排除できない。双方とも世論は無視できない。アメリカ人の作家であるナオミ・ウルフはアメリカで起こっている出来事を分析し「プロライフ派がいやがらせや暴力のターゲットにしたのはあくまでも中絶医であることを指摘し、もし彼らが女性個人をターゲットにしていたら、世論はプロライフ派に背を向けただろうと述べている」*1

ここでグレッグ・ルッカは新たな登場人物を投入する。ブリジット・ローガン、アグラ&ドノヴァン探偵社所属、28歳、身長185センチ……両方の耳はいくつもピアス穴が開けられ、フープピアスやスタッドピアスがついており、鼻孔にもピアスが通されている。革のバイカージャケットを着て、ポルシェ・カレラ911を操縦する。彼女とアティカスはコンビを組む──アティカスが危機に陥ったとき助けてくれるのもブリジットだ。そして彼女は『The Advocate』(LGBT向け総合誌)と『On Our Backs』(レズビアン向け雑誌、現在は休刊)といったアメリカの雑誌を購読している。このアティカスとブリジットのコンビはとても新鮮で、読んでいて(このジャンルにありがちな)苛立たしさを全く感じなかった。二人はスティーグ・ラーソン『ミレニアム』のミカエルとリスベットのコンビと近いものがある。ルッカは後にブリジットを主役にした作品も書いているようだ。

ブリジットとアティカスは二人で事件を追いながら、その過程で、重要な議論をする。二人の議論が作者の中絶に関する態度の表明であると理解できる。そして二人の間で明らかになった齟齬が、本書で発生している一連の事件を生み出したものであり、その齟齬によって(そこに齟齬があることを知った)アリソンがアティカスとのこれまでの関係を解消するのだろうし、さらにこの齟齬が、小説を超えて、かつてアビゲイル・アダムズが記したように、現実世界における女性に対する差別や抑圧に繋がっているだと示唆される。

ブリジットは、しばらくアルトトイズをしゃぶっていたが、歯で噛み砕いた。「あんたは、妊娠中絶合法化支持派なのかい?」
「おれはむしろ、女性の選択する権利を支持している」
「連中のひとりか」ブリジットはいった。
「なんの連中だ?」
ブリジットはため息をついた。ミント菓子は消えており、彼女はあらたな一個を取り出した。「心優しいくそ男たちさ。なんでもきみのしたいようにしたまえ、ハニー。きみの役に立つのならなんでも。きみが選ぶことだよ。むろんそうさ。最初からずっとそうなんだ」
「いっていることがよくわからんが」
「男どもは、最初からこのことのうしろに隠れているんだ。産む産まないは、昔からずっと、女の選択する権利だったんだ。それは歴然としていることだし、問題なんかじゃない。男たちが関係していることじゃないんだ」
「では、関係しているのはなんだい?」
「クロウエルを見てみな。ジョン・バートと、やつがフロリダのペンサコーラで主催していた妊婦のための基礎訓練キャンプを見てみな。あの男は、経費をまかなうために、妊婦たちの社会保障小切手の半分を受け取っていたんだよ、知ってるかい? それについてあんたはどう思うね、兄ちゃん? すべては女に対する支配の問題なんだ。男どもが女に選択させる権利をまず自分たちが持っていると思いこんでいる事実が問題なんだ。それがずっとつづいているくそいまいましい問題なんだ」彼女は、ミント菓子を口に放り込んだ。



『守護者』p.250-251

しかしクロウエルら〈声なき者の剣〉の支持者は(そして中絶反対派の多かれ少なかれは)、この「女性の選択する権利」というものを問題視する。そういう発想を生み出す基盤自体──共通基盤作成会議もそうである──を認めない。「声なき者」は胎児を意味している。プロライフ派は揺るぎない信念をもっている。彼ら彼女らは胎児の守護者を自認している。そこに、そもそもの齟齬があるのだ。

(前提1) 罪のない人間を殺すことは不正である。
(前提2) 胎児は罪のない人間である。
(結 論) 胎児を殺すこと(中絶)は不正である。


この論証は論理的に妥当なので、中絶が不正ではないことを立証しようとするひとは、前提1か前提2を否定して、この論証が健全ではないことを立証しなければならない。
おそらくほとんどの人は前提1「罪のない人を殺すことは不正である」を自明であると考えるだろう。一方、胎児が人間であるかどうかはかなり微妙な問題である。いつから私たちは人間になるのだろうか? 受精の段階だろうか、それとも産声を上げて生まれてきた時だろうか? どこで私たちは人間と人間でないものの線を引くことができるのだろうか? これがいわゆる「線引き問題」である。



江口聡『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』より編者解説 p.272

中絶に反対するための今日的なレトリックは、胎児の遺伝的組成は受精の時点で決定され、その遺伝的コードは完全に人間のものだというものである。胎児が人間であることに疑いをもつことなどないように、私たちはさまざまな成長段階での胎児の写真を何度も見せられ、初期の胎児の見かけにはっきりと人間的な特徴─目、指、つまさきなど──があることを見せつけられる。初期の段階での胎児はまだ顕微鏡的な小ささであること、訓練を受けていない目には他の類人猿の胎児と区別できないこと、人間の生命を意味あり価値あるものにする能力を欠如していることは、自称「胎児の守護者」たちによっては道徳的に重要なことであるとは考えられていない。中絶反対キャンペーンは、母親によって命を脅かされているこのごく小さく無力な存在に対して共感的態度を引き起こそうとするものである。キャンペーンがめざしているのは、胎児が妊娠している(おそらく無責任な)女性との敵対的な関係に巻き込まれてしまっていると私たちに思わせることだ。私たちが自分と同一視するように求められるのは「まだ生まれていない子ども」であって、やはり人生(ライフ)が問題になっている(利己的な)女性の方ではない。



スーザン・シャーウィン『フェミニスト倫理学のレンズを通して見た妊娠中絶』(江口聡 訳、『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収)p.257-258

私たちはいま、中絶の道徳性を議論しているのであって、中絶を禁止または許容する法律の是非について議論しているのではないことを再度強調しておきたい。もし女性が自分の身体について選択する道徳的権利を本当にもっていると思われているならば、よりはっきりと言えば自分の妊娠を終わらせる道徳的権利をもっていると思われているならば、中絶を禁じるような法律は不正であるということになるだろう。実際のところ、たとえ女性がそのような権利をもたないとしても、現状ではそのような法律は不正義であり、実行不可能であり、非人道的であるかもしれない。この問題について私は本論では触れない。だが、法律の正義と不正義に関する問題をすべて脇において、とりあえず女性にはそうした道徳的権利があるのだと想定してみたところで、徳理論によれば、中絶の道徳性についてのこうした想定から得るものは何もないのだ。なぜなら(特に中絶に限らずきわめて一般的なこととして)道徳的権利を行使する際に、私が何かしら残酷な/冷淡な/自己中心的な/軽薄な/独善的な/愚かな/思いやりのない/誠実さに欠ける/正直でないようなことをしてしまう──つまり、悪徳だと非難されるような仕方で振る舞ってしまうことがあるからである。当事者たちそれぞれが年がら年中自分の権利を主張しあっているならば、愛や友情は長続きしない。また、「自分が権利をもっているものを手にすることこそ、何よりも重要なことだ」と人々が考える時、そうした人々がうまく生きていくことはできないものだ。そうした人々はお互いに傷つけあい、そして自分自身を傷つけることになるのである。



女性の権利という点から議論をして、次のようなことを言う人々がいる。「ええと、あなたが今議論しているのは彼女の人生でもあるわけだよね。そして彼女には自分自身の人生と幸せに関する権利があるでしょう」と。そして議論はそこでストップする。これに対して、徳理論の文脈で私たちがとりわけ関心を寄せるのは、何が人間のよい生を構成するのか、何が真の幸福すなわちエウダイモニアなのか、ということである。それゆえ、議論はここで終わりはしない。私たちは引き続き、「それでは彼女の選んでいる人生は人間のよい生なのか? 彼女はよく生きているのか?」とさらに問い続けるのである。



中絶についての議論に女性の権利を持ち込もうとするもう一つの動機とは、殺害ということを中心的に考えるアプローチが発展させてきた次のような含意、すなわち中絶が不正である限り、女性の行う行為だけが不正であるという含意、あるいは少なくとも(中絶医は男性が多いことを考えると)女性だけが引き起こす不正であるという含意を、修正しようとするものであろう。私自身としては、こうしたやり方では、自然が男よりも女に厳しい重荷を負わせているという事実から逃げ出すことはできないと考えているが、女性の権利を強調する立場が当然懸念している不正義の多くを、徳理論によって修正することができるというのは確かである。これまで述べてきたことは、それをほとんど変更することなく、男の子や成人男性にも適用することができる。中絶の決断は、自然な意味で女性の決断であり、女性にこそふさわしいものであるが、しばしばその決断には男の子や男性がよかれあしかれ関係しているし、たとえ関係していなくとも、それが問題となった状況において、彼らは当事者であり続ける運命にある。女の子や女性と同じように、男の子や男性も、自分が行動するときに、中絶との関係で、生命や親であることに関する自己中心性、冷淡さ、そして軽薄さを示すことがある。男たちは、自分の子どもが障害をもってうまれてくる可能性がある場合に、自己中心的になるかもしれないし、逆に精神的に強くなるかもしれない。男たちも性活動や、セックスのパートナーや避妊の選択、あるいはそれらを選択しないことについてよく考えねばならない。



ロザリンド・ハーストハウス『徳理論と妊娠中絶』(林誓雄 訳、『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収) p.231-232,240,243-244

……カリフォルニア州のプロライフとプロチョイスの活動家計212人について調査を行ったクリスティン・ルーカーは、どちらの運動においても活動家の80パーセント以上は女性で、男性はいずれの側であれ学歴や収入、職業、子供数などの変数において大差が見れらないのに対し、プロライフ女性とプロチョイス女性の間には多くの点で劇的な差異が見られたと報告している。すなわち、プロチョイス女性は94パーセントが仕事を持ち、半数以上が合衆国の働く女性の上位10パーセント以内に入る高い収入を得ており、結婚している場合には夫も高所得である。これに対しプロライフ女性は63パーセントが収入の得られる仕事にはついてはおらす、働いている女性の大半は未婚で、その収入は低い。また既婚女性の夫の職業は、中程度の所得の得られる熟練労働者や小規模ビジネスマンであることが多い。プロチョイス女性の学歴は37パーセントが大学卒以上で、博士号などの学位を持つ者が18パーセントであるのに対し、プロライフ女性では博士号保持者は6パーセントにすぎず、10パーセントは高校卒またはそれ以下、大学に進んだが卒業しなかった者が30パーセントである。また、高学歴であってもプロライフ女性は一人を除く全員が結婚にともなって仕事をやめ、主婦になる道を選んでいる。プロチョイス女性はプロライフ女性よりも未婚率、離婚率ともに高い。プロライフ女性では5人かそれ以上の子供のいる人が23パーセント、7人かそれ以上が16パーセントと、総じて子沢山である。宗教にかんしては、プロライフ活動家のほぼ80パーセントがカトリックで、うち20パーセントは違う宗派からの転向者であった。一方、プロチョイスでは、カトリックの家庭で育った人が20パーセントもいたが、調査の時点でカトリック教徒であると述べた人は一人もいなかった。



『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.151

すでにアメリカの事例を学習した私には、グレッグ・ルッカが『守護者』で意図していることが理解しやすいと思える状態にある──そのときの私はそのような思いに囚われた。アメリカの事例を知っている私には、『守護者』において、中絶をめぐる論争の中で何を焦点化し何をそうしないのか作者が使い分けていることをそれとなく感じ取っている。アメリカの事例を学習した者が大抵そうであるように、私はアメリカの事例を知っていることでもって、世界のあらゆることをそれで説明できるかのような心の状態を自分自身に見出すことができる。それは、アメリカの事例を知っていることで、アメリカ人が過去に経験し学んだことと同じようなやり方をしていると感じている私にしかできないことである。
グレッグ・ルッカは明らかにプロチョイス派である。創作物を通じて、そのことを読者に理解させようとする。こういう場合、一方の側への共感ともう一方の側への反感を描くことになるだろう。クロウエルらの活動は目立って過激になる。クロウエルらの仕掛ける洗脳的な議論も目立って表面化する。アメリカの知識人であるナオミ・ウルフが、中絶反対派が中絶医ではなく女性個人をターゲットにしたら世論の支持を得られなかっただろうと述べたが、では、だとしたら、読者の支持を得られないようにするために、この『守護者』の中で中絶反対派(の一部)は女性個人をターゲットにする(した)ように展開していくだろう。


ここでグレッグ・ルッカが、人種的、民族的、性的、階級的……に多様な人たちをプロチョイス派であるアティカスらの仲間とした設定が効いてくる。言うまでもなく、この小説に登場するプロライフ派はクロウエルにせよ、ヴェロニカにせよ、マデリンにせよメアリ・ワーシンにせよ白人(そして中流階級以上)のキャラクターばかりである。アメリカの事例を学んだ私にとって、この構図は、それ自体が規則に従った美しく感動的なもので、まるでそれが、そのことを私がちゃんと読み取っていることが、私自身の功績でもあるかのように思えてくる。そう、ハロルド・クロンク監督の映画『神は死んだのか』も同じパターンであった。あれも無神論者側が白人のブルジョワ大学教員たちに代表され、それに抵抗する人たちは「多様な人々」だった──アメリカの事例を学んだ今でこそ、私はその効果を完璧に理解することができる。


かつて私は、アメリカの事例が「単にあるという事実」でもって、どうしてそこから従うべき規則のようなものが導かれ、どうしてこの私が「その通りに」あるいは「それと同じやり方」を選択しなければならないのか疑問を抱いていた。今は違う。十分にその効果を理解している。「アメリカの事例」を知っていることは、ほとんどの民衆が聖書を読めなかった時代における聖職者の役割と同じものであり、民衆を教え諭す権威の根拠となっているのだ。民衆に対しアメリカの事例を披露する。その事例によって民衆が何をしてよいのか、何をすべきなのか、何をしてはいけないのかを教え諭す。全知の神が用意した聖書でさえ解釈可能なのである。「アメリカの事例」はいかようにも解釈され、いかようにも適用され、そこから何をすべきであるかの規範がいかようにも導き出される。どの書、どの章、どの聖句を重視すべきか、無視すべきかもその時々の権威者によって定められている。アメリカの事例を知っていることは、アメリカ以外の国や地域において、尊敬と称賛を得られる──そして一部の者にとっては俸禄さえも得られるだろう。アメリカ至上主義体制の中にあって、だから私たちは、アメリカの事例を知っていることをますます声を大にして人々に知らしめる。
「知ったかぶり政治」──私は自嘲を込めて自分自身の行為をそのように名付ける。



場面は、ドクター・ロメロのクリニックがターゲットにされ、様々な形態のプロライフ派による抗議活動と、それに対する抵抗──フェミニズム団体を中心とした妊娠中絶合法化支持派のピケ・ラインが形成されている。クロウエルは言う「このいわゆる”選択的かつ変更可能な手続”は、殺人なのだ。血塗られ、計算され、州に認可された殺人なのだ! 蛮行であり、なかんずく、神に対する犯罪なのだ!」。合法化支持者は「選択を、選択を、選択を」と対抗する。しかしデモの群集はクリニックの窓を割り、ドアに向かって殺到する。NARAL(National Abortion Rights Action League 全米中絶権獲得運動連盟)の旗は引き落とされ、けが人が出る。
中絶医のクリニックはまさにこの論争における現場の主戦場として表現される。『守護者』の作者は、そこで主人公アティカスに彼が関わった湾岸戦争での経験を思い出させる──アティカスはテルアヴィヴである人物の警護をコーディネートしていた、そのときにサダム・フセインイスラエルスカッド・ミサイルを落とした。そのときの混乱に陥った事態と群集心理のもたらした惨状の記憶を、現在の主戦場に、投影する。

この中絶容認派と中絶反対派がクリニックの前で相対する場面で、アティカスがイスラエルと関係の深い人物でユダヤ教徒であることが初めて具体的に読者に知らされるのだが、ここでのある出来事に興味を惹く──アメリカ人なら、アメリカの事例を学習した者ならば、おそらく、その意図を自然と理解するように書かれているはずだ。それは、アティカスと中絶反対派の〈声なき者の剣〉のメンバーとの議論の形を取っており、おそらく、そこにおいて中絶反対派が仕掛けてくる洗脳的な危険性を注意深い読者が読み取れるよう特別に付け加えられたに違いない──アメリカの事例を学習した者ならば、アメリカ人と同じように、そのように思うだろう。だから、作者自身のプロチョイスの立場によって構成されている物語世界の中で(そのようにアメリカの読者は、そしてアメリカの事例を学んだ読者は、すでに理解している)、作者と反対の立場にある登場人物が仕向ける洗脳的な議論は、その根底にある仕掛けが、非常に理解しやすいように描かれている。
それはこうである。〈声なき者の剣〉のメンバーは「赤ん坊殺しを容認するのか」と訊いてくる。〈胎児〉を〈赤ん坊〉と同一視させるならば、この議論への回答はすでに決まっている──こういう二項対立へ持ち込む議論は「この問題」だけに限らないだろう。次にアティカスがユダヤ教徒だと知った〈声なき者の剣〉のメンバーはホロコーストとの類似を指摘する。中絶手術とホロコーストを同一視させるならばこの議論への回答はすでに決まっている──そして、こういう「特定のグループ」を狙い、その「特定のグループ」に付けこみ二項対立へ持ち込む議論は「この問題」だけに限らないだろう。そもそもこの物語で中絶を行っているドクター・ロメロへ送られてくる脅迫状自体、とりわけ彼女のダウン症の娘が殺害されたときに明らかになるように、それを中絶手術と同一視することによって、どちらか一方(もちろんここでは中絶手術を止めることである)を選ぶことを強要する論法の暴力性が最初から最後までずっと描かれていた。「恫喝」という言葉の意味を、こうして、改めて理解する。そして、これも、「この問題」だけに限らないだろう。「そのような問いは、それ自体ア・プリオリに与えられるような答を想定しているか、あるいはア・プリオリな前提から発せられている。いずれの場合にも、この問いはわれわれの自由と責任の両方を拘束する」。*2



すでにアメリカの事例を学習した私には、他人を都合よく「何か」と同一視させ、自分たちの要求に従わせるテクニックの構造を十分に理解している──あのときの私はそのような思いに囚われた。「特定のグループ」を狙い、「特定のグループ」に付けこみ、「特定のグループ」を操作するための薄汚いやり方。それはこのような手順で行われるだろう。


「その人たち」は操作的に何かと同一視させられている。操作的に「その言葉」と同一視させられている。「その言葉」に含まれるかのように操作されている。
(なぜならば、それは、アメリカの事例を学習したこの私がそうしているからだ。アメリカの事例を学んだ私にはその権利がある──なぜなら、アメリカではそうなのだから。私は「その人たち」を私たちが支配しやすいように「その名」の領域に包摂させる。)

「その人たち」はその学問領域にとって利用しやすいように「その学問名」が与えられ、それに置き換え可能であるかのように操作されてしまう。
(私は、実際に、そのように”LGBT”と書いた後に、それを「その言葉」で置き換えるような操作的な文章を書く。例えば、《「その人たち」すなわち「○○○な人たち」》とか、あるいは、《”LGBT”換言すれば「その学問名」》といった風に文章の中でそれらを混在させる。また、表題に「その学問名」を使用して、内容が”LGBT”に関することであったら、「その人たち」は「その学問名」の(支配)下にあることを印象付けられる。それらはレトリックの基本である。そこで私は「アメリカではそうなのだから」という文から「アメリカではそうなのだから、アメリカ以外の国や地域でもそれに倣うべきだ」という文意を導いている。)

「○○○系」という言葉を操作的に使用することによって、「その人たち」が「その系列」のもとにあるかのように既成事実が形成されていく。
(「その人たち」は「その系列」の人たちであるという既成事実化によって、私たちの仲間は「国家から」研究費を得ることができる。学問を制度化し国家から公金を授かるために、「その人たち」が「その系列」にあるという事実を捏造しなければならない──この国では「その名」において差別され、抑圧され、死に追いやられたという歴史を共有しておらず、したがって「そのアメリカの新興学問名」を引き受け「抵抗」のシンボルに掲げる理由などないからだ。差別により死を選ぶことを余技なくされた多くの人たちは「その言葉」さえ知らずに亡くなっている。「その言葉」に経験的な意味が何もない以上、「その言葉」に何か都合のよい幻想を意味づけしなければならない。幸い、旧帝大のような有力大学出身者でもなく、大学に籍を置いていないのにもかかわらず、「その名」に憧れを抱く者が少なからず存在している。私はそういう者を〈ヤンキー〉と呼ぶ。この〈ヤンキー〉という言葉に違和感を覚え、勝手に強引にそう名指しされることに対して怒りを覚える者もいるだろう。しかし思いだしたまえ。私たちが「その人たち」にやってきたことは、そういうことなのだ。それにあの出来事も──「ある学術組織」が紛糾したとき(A事象)、それと同時に、メンバーの一部が重複した「少しばかり名前を変更した別の学術組織」が発足する(B事象)。その汎用性に優れていることで世界的に名高い「ラディカルな政治」の理論に従えば、このA事象とB事象には因果関係があるのは明らかだ。A−B=「大学関係者でないこと」、つまり、A−「大学関係者でないこと」=B。「マイナス」でもって「大学関係者でないこと」が差し引かれることを意味している。すなわち「予めの排除」によって差し引かれたのは「大学関係者でないこと」、あるいは「大学関係者でない人」ということになる。「その名」において排除され、差し引かれたのは「大学関係者でないこと」なのである。だから大学関係者とそうでない者──そこでは必然的に学歴主義の問題が浮上するが──で区別することは正当化できるのだし、それが「その名」においてなされた以上、「その理論」と齟齬はない。しかも、そういった〈ヤンキー〉は大いに利用できる。アメリカの事例はヒロイズムに満ちている。〈ヤンキー〉はそういうのがすごく好きだ。ヒロイズムのようなものを拒否しているかのように振る舞いながら、アメリカの事例からヒロイズムを読み取り、それに酔うことは両立できる。)

「その人たち」は自分は「○○○な人」ではないし、絶対にそう呼ばれたくない──他人をそう呼ぶ権利は「あなた」にはない、と抗議する。
アメリカの事例同様、生真面目に植民地主義について学習した私は、几帳面にそれを遂行する。私たちが他人を「その学問領域」に組み込むことができるのは、私たちの意識の奥底で自分たちは宗主国側の人間だと思っているからだ。そうでなかったら、どうして他人を「改名」できるのか、どうして自分たちの「領域」に勝手に強引に組み込むことができるのか。一旦「アメリカではそうなのだから」を受け入れさせたら、そこから「だからここでもそうすべきなのである」を容易く導き出せる。さらに〈ヤンキー〉たちの振る舞いも一定の効果を上げている。「改名」の正当化のアリバイになっているだけでなく、〈ヤンキー〉たちはアメリカの事例から読み取った抵抗という名のヒロイズムを「ここ」でも実現させたいと願い、そのあまりに強い欲望のために欲求不満に見舞われており、「私たちはここにもいる」と躍起になって抵抗していると思っている/抵抗しているかのように振る舞っている自分たちの存在をアピールしまくっている。そういう連中に、私は、適度に刺激を与えその欲望を持続させるように小出しにアメリカの事例を与える。そして、そういう連中に、私はときどきアヘンのような言葉を与える──「連帯」という言葉を。)

「その人たち」は言う。勝手に強引に「アメリカの学問名」と同一視させられ、そこに包摂されるならば、そこでの規定に従わなければならない。そこでは「あらゆる性的な言動」を受け入れざる得ず、それはセクシュアル・ハラスメントだとする異議申し立てを困難にし、子どもへの性的虐待に対するそれぞれの立場の違いも圧殺される。それらが既成事実化されるのだ──それが自由意志を奪うことではなくていったい何なのだろう。
(まさにそれが、私が反植民地主義反帝国主義から学んだことであり、ときに「その人たち」同士を反目させるべく争いの種を蒔くこともこともある。そうすれば「その人たち」も「公平な立場にいる」私たちが必要だと理解するだろうし、そう理解させることができる。〈ヤンキー〉たちは、そういった私たちのために地ならしをしてくれる──まるでキャプテン・アメリカから秘密の特別の指令を自分だけが授かったと思い込んでいる幼子のように自ら律して他人が「何か」と齟齬がないかどうかだけを探っている。齟齬は容易く見つかるだろう、何しろ四つの福音書の記述の中でさえ、そこに齟齬があるのだから。ただ、子供のようだからこそ、大人の事情を解せず、「あの学会問題」が勃発してしまったことは忘れるべきではない。あれは私たちの「ここ」における失敗だった──自分たちにも守れない「規約」を「新しいレビ記」の中に記しておくべきではなかった。〈ヤンキー〉らの融通の利かない純粋さを見誤っていた。私たちは「我々は安定を求めている、そのために誰よりも安定した地位と安定した収入を求め旧帝大へのロンダリングもする、何よりも計算高く振る舞うこともできる、それが○○○だ」を心に抱いていたのに対し、彼らは「我々は安定を望まない、それが〈ヤンキー〉だ」というヒロイズムに満ちた簡潔で美しい文言を唱えていた──それは私たちの意図を覆い隠し糊塗するのに役立っていたのだが。私たちは、○○○でもって〈ヤンキー〉を意味しているのだろう。「その人たち」が○○○という言葉を拒絶するのならば、今後は、〈ヤンキー〉に包摂させよう──ヤンキーな人、ヤンキー系、ヤンキー理論、ヤンキー・スタディーズ、ヤンキー・ポリティクス……。)



【自由意志を奪うこと、自由意志を奪うこと、自由意志を奪うこと】

ある国立大学の大学院の教員が、学生に対して行使した「性的な言動」が問題となり、それがセクシュアル・ハラスメントと見做され、懲戒処分になった。私はそのニュースの持つ意味を少したってから理解することができた──今の私はその事例に負っている。そう、他人に対して、それを望んでいないのに、他人を苦しめる「性的な言動」を繰り返し、それを受け入れるよう迫ることは、セクシュアル・ハラスメントなのだ。この事例を知って、どれほど多くの人が、自分たちを苦しめてきたものが本当は何であったのかが理解できたのではないか──あれはセクシュアル・ハラスメントなんだ、あれはセクシュアル・ハラスメントなんだ、と。
自分たちを苦しめてきたセクシュアル・ハラスメント、自分たちが「そうであると」いうそれだけの理由で、自分たちに向けて、自分たちを狙って、自分たちだけに対して「性的な言動」が平然と行使され、何かあるごとに、「直接的な性行為内容」が自分たちに向かって浴びせられる理不尽さ──自分たちだけに向かって浴びせられる理不尽さ。
どれほど多くの人が、そういったことに苦しめられてきたことか。そして、どれほど多くの人が自分たちが「そうである」から、それを受け入れなければならないと思い込まされてきたことか。この苦しみは自分たちのせいであると、この苦しみの原因は自分たちにあると、ずっと思い込まされてきたのだ──私たちが「そうである」という理由で。私たちが「そうであるならば」、それは「その名、その言葉、そのアメリカの学問名」に自動的に含まれていることにされ、そうであるのだから「性的な行為それ自体」を浴びせられるという苦しみを訴えることもできず、それどころかそれに耐え、それを受け入れることが私たちの責務であり、それに苦しみを抱くこと自体が間違っているとさえ思わせられてきた。「その学問名」に包摂されているのに(「あなた」は○○○な人でしょう?)、なぜ、「性的な言動」を受け入れることができないのか、と責められてきた。「そのアメリカの言葉」に(すでに)含まれているのに、「直接的性行為内容」を受け入れることのできない「あなた」が間違っている、と。そのような権力が行使され続けてきた──学問の名によって、学問の権威によって、その学問に携わっているというそれだけの理由で公的機関から何か特別な権能を授かったかのように振る舞う人たちによって。
どれほど多くの人がそのことに対して絶望しただろう。どれほど多くの人が、自分自身を責めてきたのか──責めるように仕向けられてきたのか。いったいどんな権威が私たちに「それ」を正当化してきたのだろうか。その学問の権威がどれほど人々の苦しみを隠蔽することに加担してきたのか。それを望んでいないのに、浴びせられた「性的な言動」を不快に思い、それに耐えられないと思うこと自体が、どうして私自身の罪になってしまうのか──どうして私自身の罪にさせられてしまうのか。大学教員によるセクシュアル・ハラスメントの問題を報じた報道記事は、私に、その理不尽さを理解するための重要な事例となった。

このような恐怖のワナにはまった子どもは、虐待者の罪の責任はどうしてかはわからないけれど自分のほうにあるのだと思い込むようになってゆく。自分がただこの世に生まれてきたということだけで自分の世界のもっとも強力な人たちが怖ろしいことをするようになるが、それは自分があの人たちをそうさせているのだと思い込むのである。そうであれば、自分の本性が頭の先から足の先までまっ黒なのは確かである。自己を語ることばはひどい嫌悪のことばになる。生存者たちはお定まりのように、自分はふつうの人間関係の中に入れない人間だという。


ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』(中井久夫 訳、みすず書房)p.158


【自由意志を奪われること、自由意志を奪われること、自由意志を奪われること】

その事例によって、セクシュアル・ハラスメント問題の核心を理解した私は、では、大学におけるセクシュアル・ハラスメントに対する規約はどうなっているのかを調べた。

セクシュアルハラスメントは、「他の人を不快にさせる性的言動」と定義される。その態様としては、身体的接触、視線、性的内容の発言など、様々なものが含まれる。また、「性的な言動」には、性的な関心や欲求に基づく言動のほか、性別により役割を分担すべきとする意識に基づく言動等も含まれる。「性的な言動」に対し、相手が「不快」と感じれば、基本的にそれはすべてセクシュアルハラスメントである。個人の尊厳を深く傷つけるセクシュアルハラスメントは、人格権の侵害である。


東京大学におけるハラスメント防止のための倫理と体制の綱領

これを読んで、どれほど多くの人が救われただろう。私は、そこにおいて、自分の思いを読み取ることができた。「それ」を望まないのに、「性的な言動」を受け入れる理由などないのだ。「それ」を望んでいないことを明確にしている以上、「性的内容の発言」を受け入れるよう迫ることも、それによって生じる苦痛の思いを強いることも、あってはならないことなのだ。あらゆる場で「直接的な性行為内容」を受け入れるよう恫喝される筋合いなどないのだ。「性的な言動」によって苦痛を感じることは私の責任ではないのだ。どれほど多くの人が救われただろう。自分が「そうである」というそれだけの理由で、自分に対して、「性的な言動」を受け入れるよう強要され、恫喝され、そのように仕向けられる謂れはないんだと知ったことによって。この事例を知って、どれほど多くの人が救われただろう。自分の「この苦しみ」は決して自分のせいではないのだと。どれほど多くの人が救われただろう。「それ」はセクシュアル・ハラスメントであり、誰からも──たとえ「その学問」の権威者と見做されていても──「それ」を受け入れる義務などないのだ。そして、だからこそ、自分が「直接的性行為内容」を受け入れることを苦痛に感じ、それを受け入れなかったことが自分の重大な欠点であるかのように思わされ、それによってさらに苦しみを背負わなかれならなかった過去の記憶を思い出す。
今は違う。それはセクシュアル・ハラスメントだと言える。「その名」に、「その言葉」に、「そのアメリカの学問名」によって、私がどういうわけか「そこ」に含まれているかのごとく錯視させられ、それによってセクシュアル・ハラスメントへの異議申し立てが奪われていたこと。どれほど多くの人が救われただろう、「その名」は私の名ではないことを言えることによって。どれほど多くの人が救われただろう、「その言葉」を私が拒絶できる権利を有していることを知ったことによって。どれほど多くの人が救われただろう、「そのアメリカの新興学問名」に勝手に強引に包摂することは暴力であり、どんな権威をもっている人物によっても、どんな学問的権威をチラつかされても、私の意志はそれを絶対に認めない。誰も私を「そこ」に包摂する権利はない。それは越権行為なのである。問われるべきことは、これまで、そのような越権行為がどうして当たり前のようになされてきたかということである。

境界システムは目に見えない、三つの目的を持った象徴的な「壁」である。その目的(1)私たちの領域へ他人が侵入したり、私たちを害することを防ぐこと(2)私たちが他人の領域へ侵入し、彼らを害するのを防ぐこと、そして(3)私たち各自に「私たちのあるがまま」の感覚を具体的に表現させることだ。境界システムには二つの部分がある。外的境界と内的境界だ。
外的境界は、他人との間の距離を私たちに決めさせ、他人が私たちに触れるのを許したり拒んだりするのを可能にする。私たちの外的境界は、私たちの身体が他人の身体を傷つけるのも防ぐ。外的境界は二つの部分に分けられる。身体的境界と性的境界だ。私たちの外的身体的境界は、どの程度まで人を自分に近寄らせるか、また彼らが私たちに触れていいかどうかをコントロールする。
また、もし私たちに完全な外的境界があれば、他人の身体に触れていいかどうかの許しを求めることを知っているし、彼らに不快感を与えないようにあまり近寄り過ぎないように気をつける。同様に、私たちの性的境界は性的な距離と接触の度合をコントロールする。

内的境界は、私たちの思考、感情、行動を保護し、それらを機能させている。私たちが内的境界を働かせているときは、思考、感情、行動に責任を持つことが可能で、他人のそれとは区別ができ、私たちが考えたり、感じたり、行うことで他人を責めることはない。
内的境界があると、他人を操作したりコントロールせず、他人の思考、感情、行動に責任をとることもやめさせてくれる。


ピア・メロディ『児童虐待共依存 自己喪失の病』(内田恒久 訳、そうろん社)p.39-40


これが、私が「この事例」から学習したことである。


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中絶論争とアメリカ社会―身体をめぐる戦争

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初代教会と中絶

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妊娠中絶の生命倫理

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心的外傷と回復 〈増補版〉

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アメリカの新興学問」=クィアの横暴と欺瞞とセクシュアルハラスメントと薄汚い包摂のやり方に断固として抵抗するために

*1:塚本久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ』p.193

*2:『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.47