- 作者: 滝本誠
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/09/01
- メディア: 単行本
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フィルム・ノワールで思い出して、滝本誠の『きれいな猟奇』(THIS SWEET SICKNESS)を読み返した。中でも、「のっぺらぼうとヤッピー・ザ・リッパー」と題された、マーク・コスタビ(Mark Kostabi、b.1960) とブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』について書かれたテキストが印象に残った──というのも、ジムのプールで泳いでいたら……水泳帽にゴーグルをつけたスイマーたちが、ことごとく、女も男も、無個性な「のっぺらぼう」に見えてきたからだ。自分も含めて。すなわちコスタビの絵のように。
Mark Kostabi
- 作者: Mark Kostabi
- 出版社/メーカー: Journey Editions
- 発売日: 1996/11/01
- メディア: ハードカバー
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『きれいな猟奇』によると、マース・コスタビは最初から「商業主義」(コマーシャリズム)を打ち出し、マネーにこだわったのだという。「アート界は要約すれば金だ。ハードに働き、欲望のままになすことをなせば自ずと個性を獲得できる。人はいつも個性に金を払いたくなるものさ。こうして金が入ってくる」とはコスタビ氏の言。まさしくマネー・コスタビ。
コスタビの絵の登場人物は、のっぺらぼうの、これから目、鼻、耳などの彫り込みを待つプロトタイプの弾力人体である。こうした人物がテレビや家具を目いっぱい腕を抱え込む Materialism #2 (物質偏重主義第二番)とかコスタビの絵はわかりやすく批評性においてもなにやらのっぺらぼうなのだ。基本はヤッピーの消費イズム。
しかし、そののっぺらぼうの絵とのっぺらぼうの時代批評に照射されると、奇妙な恍惚がある。自分の顔も肉体も陰影を失い、次第に画面と同じくのっぺらぼうの存在と化していく恍惚だ。
そういえば、泳いでいるときって、ほとんど何も考えていなくて──というか何か考えると・自問すると、まるで匍匐生物が歩行に支障をきたすように、身体が沈んでスピードが落ちてくる──それが気持ちよくてハイになる感覚がある。
で、そんなコスタビというアーティストを消費する「登場人物」がいる。それがブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』の主人公パトリック・ベイトマンだ。そこで興味を惹くのは、ベイトマンの存在論を滝本氏が「スーツ・ノワール」という言葉(概念)で批評するところだ。思わず頷いた。もともとはロバート・ロンゴ論*1で使用された概念で、それは
スーツ・スタイルが本質的にそれを身につけたもののうちに「殺意」めいた感情を生み出す、あるいは「殺意」の流出を抑える「拘禁服」だ
ということだ。なるほど。ところで、今では、このパトリック・ベイトマンでさえ「商品化」されブランドとして消費されている。
American Psycho - 18 Inch Figure: Patrick Bateman (Motion Activated Sound)
私はネクタイを数える。シルクレープ三本、シルクとサテンを織り合わせたヴェルサーチのが一本、フラール地のが二本、シルクのケンゾーが一本、シルクジャガードが二本。ゼリウスとタスカニーとアルマーニとオブセッションとポロとグレー・フランネルと、それにアンテウスの香りまでもが、混ざりあって漂う。それぞれのスーツから宙に立ちのぼり、ひとつの融合体ができている。ひんやりした胸苦しい香り。
ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』(小川高義 訳、角川書店) p.131
メアリー・ハロン/Mary Harron の映画『アメリカン・サイコ』では、まさに滝本氏の「スーツ・ノワール」論を裏付けるように、ロバート・ロンゴ(Robert Longo、b.1953)の作品がパトリック・ベイトマンのコンドミニアムを飾っている。Men in the Cities...*2
Robert Longo: Men in the Cities - Photographs
[Robert Longo]
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