HODGE'S PARROT

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双魚宮時代の最後の喘ぎ 『スコピオ・ライジング』の音楽



やはりアヴァンギャルドだな……ケネス・アンガーのトリビュート映像を観てそう思った。
Expresion en corto hace homenaje a Kenneth Anger


実は前回のエントリーでは『花火』だけではなく『スコピオ・ライジング』についても書こうを思ってタイトルに「Hallowe'en party」をつけていたのだが、いきなりションベンするシーンから始まって数々の冒涜に満ちた映像が映し出されるので──アンガーは「馬鹿者たちによって偶像化された人間たち」と彼が冒涜する〈アイドル〉のことを定義しているようだ*1──はてなダイアリーではそれを直接的に言及するのは自重しようと思った……まあ「ハロウィーン・パーティ」が「ゲイ・パーティ」を意味し実のところそれはオーギーのことなのだが……。

ぼくのことを気にしないでくれ。ひろい河にたちのぼったもやが、山の中腹を這いあがり、ひとたび頂上にたどりつくと、雲となって大気のなかに飛びたつのとおなじに、ぼくの判断についての君の不安も、動機もなしにいつのまにかふくれあがり、君のイマジネーションに、荒れはてた蜃気楼のまやかしの物体をかたちづくる。燃えさかる石炭を投げこんだ鉄かぶとに、ぼくの頭蓋骨が沈められたときには、ぼくもおなじ印象をうけるにしても、ぼくの眼のなかに炎なんかないことは、本人のぼくが保障する。なぜ君は、無垢なぼくの肉体が、桶で煮られたりするのをのぞむのか? ぼくらの頭のうえをよぎる風の、うめきとしかぼくには思えない、ひどく弱々しい、とりとめもない叫びが、ぼくには聞えるだけだ。サソリがきまった棲家をもち、そのよく切れるハサミでぼくの眼窩の底を切り刻むなんて、とうてい不可能だよ。視覚神経を破壊するのは、むしろ強力なペンチだと思うよ。それはそうとして、君にどうしても言っておかないといけないのは、桶をいっぱいにしている血のことだが、それはぼくがゆうべ眠っているあいだに、姿の見えない死刑執行人が、ぼくの血管から抜きとったものなんだ。





ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』(前川嘉男 訳、集英社文庫) p.133 *2


で、カレル・ロウの『啓明のルシファー』を読むと、『スコピオ・ライジング』のアヴァンギャルド性というか難解さというか映像に込められた多義的な意味について丁寧な解説があり、いろいろと参考になる──やはりこの作品は「アート」なんだな、と思った。それによれば「あの」レザーに身を包んだ男たちがバイクのレースをするシーンは「双魚宮時代」という瀕死に陥っているキリスト教の時代の最後の喘ぎを反映しており(バイクの音が?)、そしてジェームス・ディーンは「宝瓶宮の反逆者」として立ち現れるのだという──なんでも双魚宮は分点の歳差から生じる「大年」の二千年周期を示し、そして1962年からは宝瓶宮による異教支配が始まっているという。映像を観ただけではそこまで思いつかなかったな──単なる「ゲイ・パーティ」ではなかったのだな、と思った。やはりケネス・アンガーをより詳しく理解するにはアレイスター・クロウリー占星術黄道十二宮)のことを知っておいたほうがいいなと思った。
そんな、いろいろと「思った」ついでに。『スコピオ・ライジング』で使用されている音楽が「アート」っぽくなくて──『花火』のようにクラシック音楽ではなくて──その平易でメロディアスでキュートでさえある音楽が、暴力的な「聖像破壊」の映像に重なることによって、独特の詩情と陶酔感をもたらす──その音楽と映像の不思議な出会いが、なによりも美しい。
例えば、ペギー・マーチの《アイ・ウィル・フォロー・ヒム》や、
PEGGY MARCH I WILL FOLLOW HIM 1963 RARE

サーファリーズの《ワイプ・アウト》とか。
Surfaris - Wipeout


もちろん、この音楽の使用も「彼についていこう」(I will follow him)の「彼」は誰なのか、そして「消滅」(Wipe Out)は何を意味するのか、と思うと……ケネス・アンガーの作品は意味深だな、と思った。じわじわと効いてくる。

アンガーが反ノスタルジアの姿勢をとり、「昨日のヒーロー達はまだ私たちのもとに居る」(ブランド)という事実を嘆いていることを思えば、『スコピオ』が公開された当時、ハロウィーン・パーティ、あるいは当世風デカダンスとして誇示された祝賀会が人気を博したのは皮肉である。しかし今日、六十年代ポップの亡骸である抒情(「彼は反逆者で自由ではない…」あるいは「涙を通して青いベルベットがまだ見える」)は強いノスタルジックな響きをもっており、空虚な七十年代に復活し、盲目的崇拝と「転倒して腐敗し始める」ロマン主義に対する批判として本来は取り扱われ、まさにその歌に足を踏み鳴らして拍手する聴衆を抱えているのである。アンガーがポップ・ソングを戦略的に使用する有用性は、それらが「コラージュ・フィルム内での構造的結合であることを超え、しばしば抒情の形で絡み合う連続的な注釈として作用し、構造的機能と同じ程に物語を感じることである。




カレル・ロウ『啓明のルシファー』(武邑光裕二 訳、『夜想』18、ペヨトル工房) p.34


THE FILMS OF KENNETH ANGER VOL. 2 DVD TRAILER
*3

彼は、肉食鳥の爪の緊縮性のように美しい。いやそれよりも、くびのうしろのやわらかい部分の傷のなかの筋肉の、おぼろな動きのように美しい。いやむしろ、捕らえられた動物自身によって、つねにふたたび仕掛けられる、齧歯類だけをかぎりなくつかまえる、麦藁のしたにかくしておいてもしっかり機能する、不滅のネズミとり器のように美しい。そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出会いのように、彼は美しい!




『マルドロールの歌』 p.262




[関連エントリー]

*1:カレル・ロウ『啓明のルシファー』による

*2:

マルドロールの歌 (集英社文庫)

マルドロールの歌 (集英社文庫)

*3:

Films of Kenneth Anger 2 [DVD] [Import]

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