HODGE'S PARROT

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風から生まれ、風へと帰ってゆく



こちらでE.M.フォースターの『眺めのいい部屋』に A.E.ハウズマン(A. E. Housman、 1859 – 1936)の『シュロップシャーの若者』(A Shropshire Lad)が引用されていることを知って、早速、確認した。

……自分を解放なさい。あなたが理解しない考え方を深みから引きずり出して、それを日に当てて、その意味を知ることです。ジョージを理解しようとすると、あるいはご自分を理解するようになるかもしれん。それはどちらのためにもなる」
この桁外れの説得にたいして、ルーシーは返事をしなかった。
「わしは息子が何を悩んでいるかはわかる。わからんのはなぜ悩むということだ」
「何を悩んでおられますの?」恐ろしい話を聞かされるのではないかと、ルーシーはおそるおそる尋ねた。
「昔からの問題です。物事が調和した秩序をもっていないという」
「物事ってどういう?」
「宇宙の事物ですよ。たしかにそうだ。秩序はない」
エマソンさん、それはどういう意味ですの?」
詩の文句だとはわからぬほどの普通の声でエマソン氏は唱えた。

「彼方より、あしたに夕に、
風起こる四方の空より、
生命の素材、此方に吹ききたりて
我を編む。我ここにあり。*1

ジョージもわしもこの事実を知っておる。だがなぜこのことであれが悩むのだろう? われわれは自分たちが風から生まれ、風へと帰ってゆくことを承知しておる。永遠という滑らかな表面に結ぶ目と言おうか、もつれと言おうか、傷が一つついておる。生命とはすべてそういうものだ。だがそのためになぜ不幸な気持ちになるのだろう? 互いを愛し、働き、喜ぶことをしたらいいじゃないか。わしは世界苦などがあるとは思わん」




E.M.フォースター眺めのいい部屋 (E.M.フォースター著作集)』(北条文緒 訳、みすず書房)p.41-42

A Shropshire Lad

A Shropshire Lad



それとジェイムズ・アイヴォリーの映画でもハウスマンの詩が言及されていたのか。いちおう観たことあるけど、例の水浴びのシーン(当然、Male Frontal Nudity)とルーシーがベートーヴェンの《ワルトシュタイン》を弾くところぐらいしか覚えていないや。もう一度しっかりと(水浴びのシーンも含めて)観てみよう。

オープニングにはプッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」の有名なアリア「私のお父さん」が使われている(キリ・テ・カナワの「プッチーニヴェルディ・アリア集」CBS盤より)。

で、その水浴びのシーン、フォースターの小説を読んでみたら結構「詳細に」描写されていて、しかもなんだか気になる書き方だった。例えば、

「素晴らしい水だ!」飛び込みながらフレディが叫んだ。
「水は水さ」ジョージが呟いた。まず頭髪を濡らし──興奮していない証拠である──自分が彫像で、池が石鹸で泡立った桶であるかのように表情を変えず、フレディの後から聖なる池に入っていった。筋肉を使うことは必要で、清潔にしていることも必要である。ビーブ氏は二人を眺め、種をつけたヤナギランの種が頭上で踊り、合唱するのを眺めた。
「ザブ、ザブ、ザブ」フレディは右と左に二掻きずつ泳ぎ、それから葦か泥に足を取られた。
「泳げる?」水の溢れた緑にミケランジェロの彫像のように立ったもう一人が言った。
緑が崩れ、その問いに適切な答えを出すまもなく、彼は水に落ちた。
「ヒャーッ、オタマジャクシを飲んじゃった。ビープさん、いい水だよ、水は最高だよ!」





眺めのいい部屋』 p.200

個人的にはジョージ役のジュリアン・サンズ/Julian Sands よりもフレディ役のルパート・グレイブス/Rupert Graves がタイプだったりする。『眺めのいい部屋』の後も、ジェームズ・アイヴォリー&イスマイル・マーチャントによる『モーリス』(Maurice)を始め、やはりE・M・フォースター原作の『天使も踏むを恐れるところ』(Where Angels Fear to Tread)、イヴリン・ウォー原作の『ハンドフル・オブ・ダスト』(A Handfull of Dust)、そして『ベント』(Bent)にも出演しているし。









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*1:A.E.ハウスマンの詩集『シュロップシャーの若者』三十二篇目の詩の一節