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爆弾テロリスト、ラムジー・ユーセフ



アルカイダ幹部はエコノミー・クラスを使わずに、もっぱらファースト・クラスとビジネス・クラスを利用する。このため航空運賃はきわめて高くつく。
テロリストには、貧困と差別で抑圧された社会の底辺というイメージがあるが、アルカイダ幹部はステレオタイプ的なイメージを逆手にとっている。ファースト・クラスやビジネス・クラスを利用するのは、捜査当局の目を攪乱するための護身術としても機能する。




竹田いさみ『国際テロネットワーク アルカイダに狙われた東南アジア』(講談社現代新書) p.109


パキスタンクウェートラムジー・ユーセフ(Ramzi Yousef)は、1993年の米国ニューヨークの世界貿易センタービルを標的にした爆弾テロ事件、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世暗殺計画、クリントン米国大統領暗殺計画、フィリピンのフィデル・ラモス大統領暗殺計画、フィリピン航空機小型爆弾爆発事件、アメリカ系航空会社を狙った同時爆破計画、そして1993年のベナジール・ブット首相暗殺未遂事件の首謀者であった。
竹田いさみ 著『国際テロネットワーク』に、そのプロフィールが載っている。

ユーセフはパキスタン人の父、パレスチナ難民の母の混血児として1968年にクウェートで生まれた。「主流派」でないユーセフはクウェートでは二等国民として扱われ、その被差別的意識から次第にイスラム原理主義に目覚めていく。英語習得とコンピューター専門学校へ入学するために英国に滞在、そこでエジプト人主体のムスリム同胞団接触する。そして父親の祖国パキスタンに足を踏み入れた1989年頃から、ユーセフはカラチやペシャワルを訪れ、アルカイダ構成員に取り込まれていった。
マニラに派遣され、次にニューヨークに滞在する。そこで、「世界貿易センター爆破事件」を引き起こす。米国の捜査網をかいくぐって、ユーセフは、パキスタンに舞い戻る。

ユーセフはつねにテロ・破壊活動の計画や作戦をしていないと落ち着かない性分らしく、パキスタン滞在中にも要人暗殺計画を立案していた。首相の座を狙って総選挙に立候補していた女性議員ベナジール・ブットーを暗殺する計画である。


ブットーは、ズルフィカール・アリー・ブットー元大統領の娘で、英国オックスフォード大学留学やロンドンでの亡命生活の後に帰国し、民主的な公開選挙を求めたことで知られる。実業家と結婚して第一子を生んだ三ヶ月後に、ブットーは首相に選出された(在任1988〜91年、93〜96年)。


ユーセフやアルカイダ幹部が暗殺計画を立てたタイミングは、二度目の首相の座を狙っていた1993年の総選挙の時期である。アルカイダ幹部にとって、女性がイスラム社会の頂点に立つのは許しがたく、ブットーは退廃した西洋文化にまみれた反逆者に過ぎないとみなされた。





p.97-98

しかしこのブット暗殺計画は未遂に終わった。時限爆弾が予定よりも早く爆発したからだ。ユーセフは左目を損傷した。

この後も、前述のように、ユーセフは数多くの爆弾テロを企てる。「ボジンカ計画」の予行演習として実行された「フィリピン航空434便爆破事件」では日本人が犠牲になった。

テロ組織にとって、テロ資金は人間の体内を流れる血液のような存在である。血液が欠乏し、その流れが停滞すれば、人間は生命を維持することができない。まったく同じことがテロ組織にも当てはまる。アルカイダと東南アジアのアルカイダ系テロ組織は、多角的にテロ資金を捻出できたからこそ、絶え間なくテロ計画を立案し、テロ作戦を続けることができた。




p.193

1995年、ユーセフは手下のパキスタン人からの密告情報により逮捕された。密告したパキスタン人は、ユーセフにテロ工作を強要され、その命令に従わなければ家族を殺すと脅されていたと証言した(その真偽は不明)。このパキスタン一家はアメリカから懸賞金を受け取り、名前を変更して、アメリカへ亡命した。





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