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マイケル・バー=ゾウハー『パンドラ抹殺文書』




パンドラ抹殺文書 (ハヤカワ文庫NV)

パンドラ抹殺文書 (ハヤカワ文庫NV)



「赤い……アキレス……パンドラに……接近」




『パンドラ抹殺文書』(広瀬順弘 訳、ハヤカワ文庫) p.27

暗号名「アキレス」は KGB の幹部。「パンドラ」は同じく KGB の上層幹部であるが、実はアメリカのスパイ──すなわち CIA の「モール」(二重スパイ)である。

「モールって?」
「モールというのは、多くの場合、情報部の高官で、長期間にわたり、その正体をかくして相手側の組織内で黙々と働きつづけるんだ。そして、やがて最高機密に近づける地位につき、政策決定にまで参加するようになると、はじめてスパイ活動をはじめる。だから、相手側にとってはじつに危険きわまりない存在なのだ。




『パンドラ抹殺文書』 p.190

マイケル・バー=ゾウハーの『パンドラ抹殺文書』(The Deadly Document, 1980)は、モールとしてKGB内部に潜んでいた米側のエージェント「パンドラ」が、自分の正体を示唆する「情報」を「アキレス」に捕まれたため、米当局に助けを求めるところから始まる。アメリカは「パンドラ」を救うため、大掛かりな作戦を立てる──「どんな犠牲を払ってでも」、それを遂行する。対するソビエトも、アメリカに負けじと非情な工作を企てる。KGB 内における「モール狩り」とそれを阻止せんとする CIA の攻防── KGB vs. CIA という冷戦期の「ゲーム」──という枠組に則った「正統な」スパイ小説である*1
さらに、誰が「アキレス」で誰が「パンドラ」なのか、という「意外な人物」をめぐるミステリ的な面白さ──トリック──が加わる。そして、レオニード・ブレジネフ書記長やユーリ・アンドロポフKGB議長(後の書記長)という実在の人物を配したクレムリンの権力構造風刺や、1976年に起きたソ連のヴィクトル・ベレンコ中尉のミグ25戦闘機が函館空港に着陸した事件(ベレンコ中尉亡命事件/ミグ25事件)を模した「作戦」がリアルに展開される。虚実が巧みにブレンドされたポリティカル・スリラーである。

ただし、ページの大半を占めるのは、フランス人女性シルヴィー・ド・セリニーとCIAのエージェント、ジェームズ・ブラッドリーの逃避行だ。ふとしたことから「パンドラ」に関する文書を知ってしまったシルヴィー──大金持ちで、城館に住み、もちろん若くて美貌の持ち主──はKGBに狙われる。そして彼女を助けるヒーロー、ブラッドリー。彼はかつてKGBに妻と子供を殺害されるという「暗い過去」を背負っている。

ジェームズ・ブラッドリーは、妻子の死後、二度と元の彼に復することはなかった。愛する者たちを奪ったこの残忍な暗殺は、彼の胸に圧倒的な復讐の炎を燃えあがらせたのである。ジェームズは海兵隊を去り、CIAに加わった。初期の訓練を終えると、主としてソヴィエトの海外諜報活動を対象に防諜活動を行うF3への配属を願い出た。KGBに個人的な借りがあることもかくさなかった。CIA上層部は、そうした感情を持つ彼の利用価値を正しく評価した。ロシア人に対する彼の憎悪をたくみに利用して、ジェームズを最も大胆で危険な特殊任務につけたのである。




『パンドラ抹殺文書』 p.164-165

ジェームズはその復讐のためCIAという自分の組織さえも敵に回すことになる。なぜなら、KGBにモールが存在するのと同じように、CIAにもモールが存在するのではないか──CIAは実は、ソヴィエトのエージェントに支配されているのではないか。彼はそのように判断した。そのように「判断」せざるを得ない状況が次々と勃発した。孤立無援となった二人、ジェームズとシルヴィーはやがて……。
……というあまりにもエンターテイメントな展開。
以前はこの「メロドラマ」のような部分に閉口した*2。しかし今回読み返してみて、このハーレクイン・ロマンスのような部分にこそ、作者の巧みなメッセージ性を感じた。例えば以下のような、ヒロインのシルヴィーのセリフを通して伝えられるメッセージ。

にもかかわらず皮肉なことに、ふたり(シルヴィーとIRAの活動家ショーン)の初めての本格的ないさかいの口火を切ったのは、シルヴィーのほうだった。ふたりが一緒に暮らしはじめてから数ヶ月ほどたった頃、妙な客がふたりのアパートをおとずれるようになった。やってくる時刻はたいてい夜で、何やらショーンと相談する。口数の少ない皮膚の黒いアラブ人たち、そして礼儀は正しいが秘密主義の日本人たちである。おりしも新聞では、IRAPLOパレスチナ解放機構)、それに日本赤軍の秘密同盟がとりざたされていた。シルヴィーがそのことについて質問すると、ショーンは、それら革命組織の代表者たちと会っていたことを、硬い表情で認めた。ショックだった。「あの人たちはいちばんたちの悪いテロリストよ、ショーン」シルヴィーは興奮し、口走った。「平気で一般市民を殺すし、殺人のための殺人をする人じゃないの。あんな人たちと組むなんて、アイルランド戦士の恥だわ」
「かれらも自由のために戦っているんだ」ショーンも、怒って言い返した。「彼らには彼らの戦い方がある」
「あれが戦いだっていうの? 飛行機を爆破して女子供まで皆殺しにすることが? いくら自由のための戦いだって、人間として最低限のモラルには従うべきだと思わない、ショーン?」


最初の口論は、ショーンがドアをたたきつけるようにして部屋をとび出していくという形で終結した。だが、この問題に関するふたりのいさかいは、しだいに激しく重苦しいものになっていった。パレスチナ人たちがエンテベ行きのエア・フランス機をハイジャックし、イスラエル機動部隊の一団が乗客たちを解放したときには、パレスチナ人側に味方したショーンに、シルヴィーはびっくりして叫んだ。「いったいどうして、ショーン? だれだってイスラエルの行動を称えずにはいられないはずよ! あのサディスティックな殺し屋たちを正当化できるとでもいうの?」





『パンドラ抹殺文書』p.93-94

「でもショーン、この女の人を見てよ! 兵士でもなければ戦闘員でもないのよ! イギリス人でもないかもしれない。なぜこの人が死ななきゃならないの?」
「闘争を強化することにしたんだ」ショーンは静かに言った。
「闘争を強化? それは一般の人たちが混みあっているレストランに爆弾を投げ込むことなの? そんなこと、ショーン、単なる殺人じゃないの! あなたは軍事目標だけを狙うんだって言っていた。この罪もない女性は──軍事目標!?」
「まあ、落ち着くんだ、シルヴィー」そういうショーン自身が、爆発しそうになるのを必死に抑え、平静でいようと努めているのはあきらかだった。「イギリス人がぼくの国の者にどんなことをしているかはきみもよく知っているはずだ。あんなことをつづけさせるわけにはいかない、そうだろ? 世論をかきたてるんだ。そのために、警告としてテロを……」
「警告って何の警告?」シルヴィーは悲痛な声で叫んだ。「もっと多くの一般市民を殺すっていうこと? あなたが電話帳から選んだレストランにたまたま居あわせた罪のない老若男女をもっともっと殺すっていう警告?」
「きみはわかっちゃいない」爆発寸前の激しい怒りに、ショーンは顔を蒼白にし、声をふるわせた。
「ええ、わからないわ。わたしは、あなたがたの闘争は心から支持している。でも、無差別殺人を認めるなんて、わたしには絶対できない。そうしたら、あなたは最も卑劣な犯罪者と同じになってしまうもの──」
シルヴィーはすすり泣きながら部屋をとび出し、一年ぶりにジェニファーのアパートに一泊した。





『パンドラ抹殺文書』 p.95-96

シルヴィーと彼女の親友で実業家のジェニファーは、ともに父親がナチスに抵抗した「自由フランス」の戦士であった。二人の友情は、彼女たちが生まれる「ずっと以前から」始まっていたのだ。

自由フランスはフランス国内のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、諜報作戦を行う一方、武装組織である自由フランス軍(Forces Françaises Libres)を有して北アフリカやシリアなどで連合軍の作戦に参加した。その勢力は当初8,000人程度に過ぎなかったが、次第に膨れ上がり、1944年には40万人に達した。



「自由フランス」 Wikipedia より

[オペレーション・エンテベ]

[関連エントリー]


著者紹介によると、マイケル・バー=ゾウハー(Michael Bar-Zohar)は、ブルガリア生まれのユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れイスラエルに移住した人物。ヘブライ大学、パリ大学で学び、新聞社の特派員となる。1967年にはイスラエル国防省の報道官を務め、ハイファ大学で政治学を教え、イスラエルの国会(クネセト、Knesset)の議員(労働党)にもなった。

マイケル・バー・ゾウハーは、スパイ小説以外にも、ナチ戦犯を追った『復讐者たち』や、シモン・ペレス首相の伝記、ミュンヘン・オリンピックにおけるパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」によるイスラエル選手団殺害とそれに報復するイスラエル情報機関モサドを描いた『ミュンヘン』──ラビン首相の首席補佐官を務めたアイタン・ハーバー(Eitan Haber)との共著──などのノンフィクションも上梓している。


[Michael Bar-Zohar]

パレスチナを追われて離散民族(ディアスポラ)となった二千年のあいだ、ユダヤ人はおとなしい民族であり、暴力を嫌う民族であるとみなされていた。従順な民であるかれらは、思いのまま罵り、抑圧できる相手と思われていた。ユダヤ人が反抗するとはだれも思わなかった。
だが、第二次世界大戦中にユダヤ人が示した英雄的な行為によって、この神話はくずれ去った。さらに復讐者たちが、この神話をくつがえした。かれらは闘うユダヤ人であったし、現在も、またこれからも不正や虐殺に忍従するばかりではない、闘う民族なのである。




マイケル・バー=ゾウハー『復讐者たち』まえがき(広瀬順弘 訳、ハヤカワ文庫)p.4-5


ミュンヘン―オリンピック・テロ事件の黒幕を追え (ハヤカワ文庫NF)

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復讐者たち (ハヤカワ文庫NF)

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Shimon Peres: The Biography

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*1:早川書房編集部編『冒険・スパイ小説ハンドブック』(ASIN:415040674X)のスパイ小説ベストでは、ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』、ブライアン・フリーマントル『消されかけた男』に続く第3位にランキングされている

*2:ケン・フォレットもアイデアは面白いのだが、あの展開がね……