HODGE'S PARROT

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スケルツォ、動きをもって、生き生きと



『ニューズウィーク日本版』の特集「丸ごと1冊海外ドラマ」の付録DVDにはデイヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』も収録されていた。懐かしさを覚えながら、観た。
で、思い出した──結局、ローラ・パーマーを殺したのは誰だったんだっけ? なぜ、殺したんだっけ? 夢中で見たわりにはあのストーリーを「理解」できたのか? あのドラマの「解決」に納得したんだっけ?

リンチのドラマで今でも印象に残っているのは、この「よくわからない」という「不快さ」であった。そして、そのような感覚──これもまた懐かしく思い出だ──について、スーザン・ソンタグの指摘が思い浮かんだ。ちょうどイングマール・ベルイマンミケランジェロ・アントニオーニが立て続けに亡くなって、ソンタグベルイマンとアントニオーニについて書かれたエッセイを読み返していたのだった。

伝統的な話法が支持する一つの戦術は、「充分な」情報(つまり、その話法によって提示された「世界」に構築された関連性の基準に従って、必要なすべてのことだ)を与えること、そしてそれによって、映画を見る経験、あるいは読書する経験の終わりが、知りたいという欲望、何が起こり、なぜそれが起こるかを理解したいという欲望の充分な満足と、理想的に一致することである。(これはもちろん、かなり操作された知識欲である。芸術家の仕事は、作品が終わった段階で観客にわからないことは、観客の知ることのできないこと、あるいは知ろうとしてはならないことなのだということを、観客に納得させることにある。)
それと逆に、新しい話法の顕著な特徴の一つは、知りたいという欲望を故意に裏切ることを狙いとしていることだ。去年マリエンバードで何が起こったのか。アントニオーニの『情事』に出て来る若い女性はいったいどうなったのか。『ペルソナ』の幕切れ近くで、ただ一人バスに乗るアルマはどこへ行こうとしているのか。



知ろうとする欲望が(部分的に)組織にくじかれるかもしれないということがいったん理解されれば、プロット作りについて今までの期待はもはや成立しなくなる。このような映画(あるいはこれに相当する散文小説)が、たとえば「劇的」であるといったような、伝統的物語のおなじみの満足感を供給してくれるとは、ほとんど期待できなくなる。最初は、プロットがまだ残っているように思われるかもしれないが、ただそれは、ヴィジョンがぼやけてしまうような、不快な斜角でまじわっているにすぎない。実際には、古い意味でのプロットはまったく存在しないのだ。
このような新しい作品の狙いは、観客をじらすことではなく、観客をもっと直接的に、他の事柄、たとえば、知ることと見ることのプロセスそのものに、巻きこむことにある。



(中略)



観客は、いわば、作者自身も知りえないような、失われた意味あるいは意味の不在を、絶えず意識させられる。作者みずからが不可知論者を唱えるのは、ふまじめとも、観客蔑視とも見えるかもしれない。アントニオーニは、『情事』の中の行方不明になる女性がどういう目に会ったのか──たとえば、自殺したのか、逃亡したのか──彼自身にもわからないと言って、多くの不興を買ったものだ。しかし、こういう態度はふまじめでもなんでもないのだ。
観客が知らないように作者も「知らない」のだと芸術家が宣言するとき、彼が言っているのは、あらゆる意味は作品そのものの中にあり、その「背後」には何もないということなのだ。





スーザン・ソンタグベルイマンの『ペルソナ』」(『ラディカルな意志のスタイル』所収、川口喬一 訳、晶文社) p.159-160


また、ベイルマンに関連して、喜多尾道冬氏の『レコード芸術』連載記事の文章も思い出した。とくにベルイマンの映画『サラバンド』で流れる音楽、ブルックナーの<スケルツォ>についてである。『サラバンド』は僕は観ていないが、「喜多尾ゼミナール」によると、「衝撃的に」ブルックナー交響曲第9番の<スケルツォ>が使用されているのだという。
僕は、ブルックナーの<スケルツォ>は大好きで、ブルックナーの音楽をどうしても「理解できない」と感じていた子供の頃でも、スケルツォ楽章だけは好んで聴いていた。深遠で長大な他楽章と違って、簡潔な三部形式が取っ付き易く、ストラヴィンスキーの『春の祭典』を思わす強烈なリズムとマッシブな響きが、快感だった。

喜多尾氏は、ブルックナースケルツォについて、次のように述べる。

特に≪7番≫以降の<スケルツォ>と、演奏によっては≪第4番≫にも。まるで悪魔的なものをむき出しにして争っているような感じ。ブルックナーは敬虔なカソリックで、信仰の篤い音楽を書いたと言われるけど、私は反面、<スケルツォ>楽章には、その反動から、イヤなものを足でさんざん踏みつけて、蹂躙する快感が漲っていると感じる。ブルックナー自身も、そういう悪魔的な快感で精神のバランスをとっていたんじゃないか。




喜多尾道冬「ベルイマンの『サラバンド』」(『レコード芸術』2007年3月号、音楽之友社) p.286


CDは、カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ドホナーニ&クリーヴランド管弦楽団、シャイー&ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団もいいけど、ジュリーニ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を選びたい。スケルツォの豪快さで。

ブルックナー:交響曲第9番

ブルックナー:交響曲第9番


スケルツォの荒々しさでは、ヨッフムドレスデン国立管弦楽団の演奏もいいかもな。

Bruckner;Symphonies 8 + 9

Bruckner;Symphonies 8 + 9



そして、BBCベルイマン追悼記事で、ケン・ラッセルが、次のように亡くなったスウェーデンの監督について発言していたのも、思い出した。

Film director Bergman dies at 89 [BBC NEWS]

And British film director Ken Russell told the BBC: "He was probably the greatest film maker," describing him as a "very gloomy Swede".


"He could hardly bear to watch his own movies, apparently they made him so miserable," he said. "To have done 50 films with such a variety of misery is quite an achievement."

サラバンド [DVD]

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