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鈴木淳史『チラシで楽しむクラシック』



さすが目の付け所が違う。鈴木淳史の『チラシで楽しむクラシック』(双葉社)は、「コンサートチラシ」という日本独特の「メディア」にスポットを当てた出色の文化論だ。
チラシから見えるもの──それは西洋音楽を通して「日本的なもの」を垣間見させてくれる、そこから日本が歩んだ戦後の歴史を浮かび上がらせてくれる。


例えば「手に翻弄された九月」と題された1978年のクリスチャン・ツィメルマン・ピアノ独奏会に関しては、次のように書き出される。

一九七八年九月二十五の新聞各紙は、奇妙な事件を伝えている。暴力団の抗争によって殺害された男のバラバラ死体が発見されたのだが両手首だけが見つからない。犯人を検挙し、その手首の在処を質してみると、「指の指紋から身元が判明することを恐れ、持ち帰ったが処分に困り、子分たちが商売にしている屋台ラーメンのダシとして使用した」と供述したのだった。

この事件が報道されると、東京都内は一時パニックに陥ったらしい。屋台ラーメンを食べた客から警察に問い合わせが殺到、ラーメン業界の売り上げも三割ダウンしたという。いわゆる「手首ラーメン事件」である。
この時期、別の「手」に魅せられた人々がいた。





「手に翻弄された九月」より p.22

この出来事の記述に続き、十八歳で第九回ショパン・コンクール(1975年)に優勝した「注目の若手ピアニスト」クリスチャン・ツィメルマンの1978年の来日公演の模様が紹介される。左ページには、そのときの来日公演のチラシ──9月12・26日 郵便貯金ホール/虎ノ門ホール──が載せられている。貴公子然としたツィメルマンが軽く微笑み、美しい音を紡ぎだす手がちょっとブレた感じで見える。S席3000円だった。
下段の「そのときの日本」には、新東京国際空港開港、ピンクレディー「透明人間」リリース、山崎ナオコーラ誕生などが記されている……。

興味を惹くのは、こういった「チラシ」と「そのときの日本」という「歴史」だけではない。チラシそのものに向けられた分析──その圧倒的な情報量、デザインの奇抜さ、コピーの卓抜さ──がメチャクチャ面白い。というか今更ながら気がつく、クラシック音楽演奏家西洋文化を代表する芸術に対して、チラシというメディアが行っていることに。
それはハイカルチャーサブカルチャー化なのではないか、と。
今更ながら気づいた。チラシがこんなにキッチュだったのだと。
コンテクストを無視した写真の「切り貼り」はもちろん、大胆な原色使い、大仰な言い回し──逆にライトすぎるポップなキャッチコピー、マンガ絵の使用、協賛の下着メーカーや宝飾メーカーなどの企業名が「シリアスな」プログラムと並んで記載され、究極の金ぴか趣味と究極のショボさが同居する。それが日本のチラシなのである。ヨーロッパでは権威あるクラシック音楽も、ここ日本では……形無しだ。

なんですかあの、女性の腰に手を回すだけではなく、生足に口づけまでしようとする指揮者クリスティアン・アルミンクの「誘惑」というテーマは。

ブラームス:交響曲第1番

ブラームス:交響曲第1番


なんですかあの、「問題児登場! ファジル・サイは半分天使で、半分悪魔だ」「天才児登場! ジャンルカ・カシオーリは半分地球人で、半分宇宙人だ」というコピーは。しかも著者も書いているように、ジャイアンみたいなサイに、のび太みたいなカシオーリの写真が一緒に写っていて……大爆笑だ(これは意図的なのだろうか?)。
Gershwin / Fazil Say, New York PO

Gershwin / Fazil Say, New York PO

アンコール!!/ジャンルカ・カシオーリ

アンコール!!/ジャンルカ・カシオーリ


この「ハイテンションな」チラシ文化は、もっと分析されてしかるべきだ。

……あらゆるものをギッシリと詰め込むやり方は、日本文化の一つのスタイルでもある。多機能が売りの日本の携帯電話、イメージが氾濫したパチンコ台のデザインなど、一定の方向性なきままに、たくさんのものが詰め込まれる。全体がなく、部分だけが主張する、多神教の世界だ。




「究極のチラシ──光濫社」より p.86

それにしても、何よりも悔やむのは、僕がこれまでこういったチラシをほとんど見もせず処分してきたことだ。タダで貰えて、これだけ「笑わせて」くれる「メディア」の存在に気がつかなかったとは……不覚だった。これからはどんどん収集しよう。




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