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アマチュアの理想とゼネラリスト教育




そういえば、サー・トーマス・ビーチャムの指揮は「アマチュア」だと指摘されることがある。無論、これは「正しい」のだが、しかしそこで指摘される価値は、ときとして微妙なものになる。というのも、歴史的には、以下のような価値観も流通していたからだ。

パブリック・スクールにおけるジェントルマン教育と不可分の関係にあるのがそれを支配した「アマチュアの理想」である。アマチュアの理想は、報酬を生まないことに時間と能力を多く費やすことである。言うまでもなくこれは土地からの収入があり、働かなくてもよい貴族の生活に根ざしたものである。


マチュアの対極にあるのがプロフェッショナルである。イギリス流の考え方ではプロフェッショナルは専門技術に対して報酬を得る見識の狭いスペシャリストと見なされた。パブリック・スクールの生徒の間ではスペシャリストは人気がなかった。学校では金儲けを軽蔑する教育が行われた。金を儲けるためにはあくせく働かなければならず、金のために不正をし、汚職をしやすくなる、というのがその理由である。





浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治―インド高等文官への道』(中公新書) p.79


ジェントルマン・アマチュアはゼネラリストであり、彼らゼネラリスト──パブリック・スクールの卒業者──が高い価値を認めた職業は公務と聖職であった。したがってイギリスの官僚組織は徹底したゼネラリスト優位で、技官には重きがおかれなかった。

イギリスの官僚組織では、フランスのように理工系学校の卒業生が特定の省の上級ポストを占めるといった棲分けは行われなかった。パブリック・スクールのゼネラリスト重視の教育は裏返して見れば、専門教育、特に技術教育の軽視である。今日では、それがイギリス産業の衰退を招いた主原因である、として批判されている。




英国紳士の植民地統治―インド高等文官への道 (中公新書)』 p.80


ところで、パブリック・スクールというのは、肉体鍛錬を重視した「スパルタ教育」にその特徴がある。リーダーシップの体得、団体精神の涵養を目的として、ラグビーフットボール(サッカー)、クリケットなどのスポーツが奨励されたことは言うまでもない。勇気と忍耐力を養うため、冬でも暖房がない部屋で過ごし、冷水シャワーを使用する。上級生(リーダー)には絶対服従である。規律を重んじ、学校を取り巻く環境はきわめて権威主義的であった。民主主義の観念は欠如していた。
そんなパブリックスクールの卒業生が、植民地官僚として──軍人を兼ね──任務に就いた。「統治」に必要なのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学で学んだ「学識・知識」よりも、パブリック・スクールで培った「鍛錬・調教」が重要だという「認識」があったのだ。それゆえ、パブリックスクール出身者が大勢を占める、イギリスの植民地統治の特徴的なポイントとして、統治者個人に大きな裁量権を認めていたことが挙げられる。したがって、

統治が個人の人格、力量に大きく依存すればするほど、統治者の知的トレーニングをした大学よりも、人間の基本的調教をしたパブリック・スクールのカラーが統治に出るのは当然のことであった。なぜ統治者個人にそのように大きな権限が与えられるようになったか。それは「政治は科学ではなくアートだ」という政治哲学が受け入れられていたからであろう。




『英国紳士の植民地統治』 p.82