リッカルド・シャイーがオランダの名門オケ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したグスタフ・マーラーの交響曲第7番。7番は僕の大好きな曲なのだが、一般的には、マーラーの交響曲中、一番人気のない作品と看做されているようだ。
が、シャイーの演奏は、この複雑怪奇な作品を、緩急自在に、ドラマティックに、再現している。ロマンティックで輝かしい作品に仕立てている。フィナーレもすこぶる盛り上がる。デッカの録音の良さも功を奏し、精緻なオーケストラレーションが耳を楽しませてくれる。お奨めだ。
- アーティスト: Mahler
- 出版社/メーカー: Polygram Int'l
- 発売日: 1995/07/18
- メディア: CD
- この商品を含むブログ (1件) を見る
お奨めなのは、もう一つ理由がある。それはカップリングの妙である。このCDでシャイーは、オランダの作曲家アルフォンス・ディーペンブロック(Alphons Diepenbrock、1862-1921)の『大いなる沈黙の中で』(Im großen Schweigen)という作品を演奏しているのだ。
オランダの作曲家? 僕もこのCDで初めてディーペンブロックを知った。
マーラーとディーペンブロックは同時代を生きた。そしてアムステルダム・コンセルトヘボウ(ロイヤル・コンセルトヘボウの前身)の指揮者ウィレム・メンゲルベルクを仲介として、二人は知遇を得た。
それだけではない。マーラーの7番と『大いなる沈黙の中で』は、その背後に共通のある思想が横たわっている。フリードリヒ・ニーチェである。
マーラーの7番は「夜の歌」と題されることがあり、ここにニーチェの『ツァラトゥストラ』における「夜の歌」の影響が指摘されている。第3番交響曲では実際に『ツァラトゥストラ』のテクストがアルトにより歌われる。
受ける者の手がさしのべられたとき、わたしは手を引っ込める。落ちかかっていてなおためらう滝の水に似てためらう──このようにして、わたしは悪意をもちたがる。
こういう復讐をわたしの充実は思いめぐらす。こういうたくらみがわたしの孤独のなかから湧き出る。
贈ることのなかにある私の幸福は、贈ることで死んだ。わたしの徳は、ありあまって自分自身に倦んだ。
与えつづける者の危険は、羞恥を失うことだ。配りつづけている者の手と心には、配ってばかりいるために、たこができる。
わたしの目はもう、乞う者の羞恥を見ても涙することがない。わたしの手は、施し物をいっぱいに受けた人々の手のふるえを感ずるには、かたくなりすぎた。
どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの柔毛は? おお、与える者の孤独よ。光を発する者の沈黙よ。
一方『大いなる沈黙の中で』は、『曙光』のテクストがバリトンで歌われる。長木誠司氏の解説によると、
テクストの内容は、「人間の言葉=既成の道徳に縛られたもの=都会=アヴェ・マリア」から逃れて、自然の「大いなる沈黙」という「甘き悪意」に身を委ねる語り手が、その沈黙に対しても言葉──それは「錯誤や幻想や妄念」を含み持つ──をもって対処せねばならないという自嘲に駆られるというもの。
「理性=言葉」をもって理性を超えることのパラドックスが寓意的に捉えられている。「口を開くこと、いや考えることさえ私には厭わしい……。私は自分の同情を嘲笑しなければならないのか。私の嘲笑を嘲笑しなければならないのか」。
ディーペングロックは妄念や自嘲に対してシロフォンを用い、嘲笑にも似た、独特の響きを獲得する。そして「今は全てが沈黙している」とバリトン歌手は──言葉を用いて──歌う。
Aber ich bemitleide dich, Natur, weil du schweigen mußt, auch wenn es nur deine Bosheit ist, die dir die Zunge bindet; ja, ich bemitleide dich um deiner Bosheit willen!
Friedrich Wilhelm Nietzsche: "Morgenröte"