HODGE'S PARROT

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「それではエリートの記者の皆さん、思いっきり私をけなす記事を書いてください。では、さようなら」




ドストエフスキーの『罪と罰』にショックを受けた僕は、中野翠がその著書で紹介した現実の事件にも相当のショックを受けた。


1979年1月14日、東京都世田谷区で、有名私立高校に通う男子高校生Aが、彼を溺愛していた祖母を、カナヅチ、ナイフ、キリなどで殺した。そして少年Aは、近くのビルの14階から飛び降り自殺をした。
しかし何よりショッキングだったのは、少年Aが朝日・毎日・読売三紙に向けて書いた──大学ノート40ページにもわたる長大な──「遺書」の存在である。
「大衆憎悪」に貫かれたAの遺書は、下記の7章から構成されていた。

  • 第一章 「総括」
  • 第二章 「大衆・劣等生のいやらしさ」
  • 第三章 「祖母」「母」
  • 第四章 「妹」
  • 第五章 「最近ふえはじめた青少年の自殺について」
  • 第六章 「むすび」
  • 第七章 「あとがき」

そしてその遺書は、メディアを挑発するかのような、次の文言で締めくくられる。(以下、高校生Aの遺書の部分はボールドで強調)

「朝日、毎日、読売の新聞の方に。受験のイメージを大衆にはっきりと植えつけて、私の憎しみをより確固たるものにはっきりと植えつけてください。それではエリートの記者の皆さん、思いっきり私をけなす記事を書いて下さい。では、さようなら」




中野翠「高校生A君──祖母殺し高校生自殺事件  マス・メディアを挑発した幼いエリート」(徳間書店『会いたかった人』より) p.51

中野翠によれば、高校生Aの遺書は、身内や親しい人たちに向けて書かれたものではなく、最初から「軽蔑するマスコミの先手をうって」、みずから事件の背景を解説してみせたものだという。

なぜ、そんなことをしたのか。中野氏は次のような見解を示す。

エリート少年が自殺したり犯罪をおかしたりすると、マスコミはすぐに「受験戦争批判」「学歴偏重主義批判」の文脈でとらえたコメントや記事を載せる。「勉強よりも人間性のほうがたいせつ」というもっともらしい言葉で、実は、競争から落ちこぼれた大衆の嫉妬心を満足させ喜ばせている──。遺書は、そういうマスコミをあてこすった言葉でしめくくられている。




p.51-52

高校生Aは、マスメディアの「もっともらしい」──つまり愚にもつかない、大衆迎合の──コメントの先手を打って、自ら「私が今度の事件を起こした動機をまとめておく」と、遺書の冒頭に「総括」を入れる。中野の著書からそのまま引用したい。

  1. エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低能な大衆・劣等生どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を一人でも減らすため。
  2. 1の動機を大衆、劣等生に知らせて少しでも不愉快にさせるため。
  3. 父親に殺されたあの開成高生に対して、低能大衆がエリート憎さのあまり行ったエリート批判に対するエリートからの報復攻撃。


(著者注……1977年に東京の有名進学校である開成高校2年生の一人息子の「家庭内暴力」に耐えかねて、父親が息子を絞殺。妻とともに心中をはかったが、果たせず自首。翌年、妻は自殺した──という事件があった。)




p.52-53

さらに高校生Aは以下のような「動機」を遺書に書き残した。

「私はどうしても自分だけの力でこれだけのものを書いたのだという気はしない。愚鈍な大衆の無神経さに押しつぶされて死んでいった、神経質な人間の霊が地獄の底からはいあがってきて、私に力を与えてくれたような気がしてならない。あの開成高校生をはじめとするこういう人たちの復讐のためにも、私は低能な大衆を一人でも多く殺さなければならない」




p.53

少年は、祖父と父がともに東大卒の大学教授である家庭で育った。テレビはまったく見なかったのでピンクレディも知らなかった。ミステリやSF小説、映画が好きだった──しかし「何が何でも生きていくぞ式映画」「深刻大悲痛反戦映画」は大嫌いだった、というより軽蔑していた。小林よしのり東大一直線』が好きなマンガだった……。


中野翠は、高校生Aに対して他人事とは思えない強い共感を覚えるが、一方、同時に、彼の「大衆批判」に決定的な反発を感じるとも言う。「エリート」「大衆」という言葉の使用は、フラットで粗雑なものではないか。遺書から窺えるのは「大衆嫌悪」ではなくて「大衆恐怖」ではないか。それは「臆病でひよわな人間」が陥る、甘い罠、ネガティブであってもここちよい世界ではないか。それはある種の差別意識ではないか。「悲しいかな、人は差別意識によって救われることもあるのだ」、と。

私がA君の遺書に反発も感じたのは、自分はそういうかばい方や守り方はしない、したくないと思うからだ。A君の言う「大衆」の醜さに傷つけられることは多くても、時に慰められることも励まされることもあるに違いない。だいいち、笑わせてくれるじゃないか!?


(中略)


私は「死に方」よりも、やっぱり「生きのび方」のほうに興味がある。




p.56

会いたかった人

会いたかった人